第1章 序章 芸術文化とその政策

1.芸術文化の意味

まず「芸術」という概念は明治初期に西欧から輸入された概念であることを踏まえておかなく
てはならない。当時の西欧では19世紀前半に盛んであったロマン主義の流れが色濃く
残っており、ロマン主義的な芸術概念がわが国にもたらされた。

<ロマン主義とは>
芸術は宗教や政治や道徳に仕えるものではなく、それ自体、人間の自律した活動であると
言う考え。

しかし「芸術文化」と言うとそれは文字通り「文化」なのであるから下記の分類全てが
当てはまる。(日本余暇文化振興会アンケートより)

A、演劇   伝統芸能(能・狂言)現代演劇
B、音楽   邦楽・洋楽
C、舞踏   邦舞・洋舞
D、美術   絵画・彫刻・工芸・書道・写真・各種デザイン
E、文学   小説・詩歌(詩・短歌・俳句・川柳)
F、生活芸術 華道・茶道
G、その他  映画・ポピュラー音楽・歌謡曲・落語・漫才・講談・浪曲・民俗芸能・民謡
        詩吟など
しかしこの中には建築・ガーデニング・服飾・美容・フィギュアスケートなどが抜けている。
これは我々がまだ明治時代の意味内容を引きずっている証拠である。


2芸術の意味

芸術とは何かを定義するのは容易ではない。ここでは次の2点を確認するにとどめる。

①芸術が人間の技術的活動をさす
②それだけで自己完結した活動ではなく、常に他者に向けられた活動である

(芸術作品の公衆への提示方法について)

古く中世では絵画や彫刻は教会や宮殿の建造物の中に付置されていたり、広場に彫刻が
置かれて居たりした。今日では都市を飾る美術作品はパブリックアートと呼ばれているが
かつては多くの作品がパブリックアートであった。
現代では、美術作品を常設するのは美術館である。

音楽に関してもホールが作られ、演劇もルネサンス時代の世俗劇は旅籠屋の中居で
上演されていたが、やがて専門の劇場が作られるようになる。
いづれにしても芸術作品を公衆に掲示するためには何らかの施設や設備が必要である。


3芸術文化政策

①芸術文化政策の策定者

芸術文化活動は一定の社会集団の中で展開され、芸術家と公衆をセットとする活動であり、
その活動を社会集団の側から方向付けられた関係が、一般に芸術文化政策と呼ばれる
ものである。
近代国家においては、その国土が広ければ広いほど地方に分与される傾向が強い。

・日本の場合は「地方自治体」がそれに当たる。
・また「法人」とよばれる権利能を分与された組織体もある
・個人(芸術パトロン)

②おおまかな芸術文化の部類わけ

・芸術活動・・・芸術家の活動はそれ自体で鑑賞者を前提しているから
・芸術教育・・・芸術家を育成する機関の存在
・伝統芸能・・・文化的アイデンティティの重要な存在
・文化遺産・・・古文書や写本、寺院などの大きなものまでを言う。

③芸術文化政策の内容(概略)

A、助成・保護政策

ユネスコの世界遺産登録制度・ICOM(国際博物館協議会)の博物館資料の保護活動・
WIPO(世界知的所有権機関)の立案したベルヌ条約
日本では文部科学省の行った芸術系大学の設置・文化庁の業績のあげた芸術家を
表彰する日本芸術院、国立博物館、美術館などがあり、伝統芸能(歌舞伎・能など)を
継承し保護する国立劇場や国立文化振興基金など。

そのうち美術館・博物館は法人廃止、民営化の流れがあり先行き不透明である。
ホールにおいても地方自治体の財政難から芸術活動の推進が危ぶまれている。
そもそもホールとは採算の合わないものであるが、それにも関わらず維持して行く事が
その自治体の文化環境のシンボルとして意義を有す。

その他企業が文化支援を行う「企業メセナ」個人が行う支援もある。

B、妨害・検閲政策

西欧社会では15Cにキリスト教会による禁書目録がある。
中世時代には東ローマ帝国で政治的理由も伴い、キリスト教以外の信仰の神々の
彫刻や建造物を破壊した。

19Cではロマン主義芸術家たちが芸術作品を伴って政治批判や社会批判を行った
ため牢獄につながれた。
20Cの全体主義的国家では政治イデオロギーに反する芸術は禁止された。

民主主義の日本では公な妨害はないが、法治国家である以上完全な自由はありえない。
検閲制度はないけれど、過激な暴力表現や性描写は自己抑制・自己検閲が求められる
所である。
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第二章 古代からの芸術理論に見られる芸術文化政策要素

1、古代の芸術論の意義

古代の中国とギリシアが距離的に離れているのに似ている点

①政治に関わる人が音楽を聴く能力・演奏する能力を持っていた
②物を書き記すすべを知っていた→後に多くの理論がこれによって出る
③残された記録が周辺の国々に伝播した
④当時演奏された音楽が「古典」として現在も存在する
の以上4点。

2、古代中国の音楽論

<孔子の音楽思想>

孔子の音楽に関する思想は礼節と音楽の関係を重視すると言う意味で「礼楽思想」と
呼ばれる。

・舞を舞う場合、一番位の高いものは8人8列の舞を並べることが出来た。
それを「八イツの舞」という。ところがある日臣下の一人がこの八イツの舞をした。
これを見た孔子は「これが許されるのならば、世の中に許せないものはない」と激怒した
といわれている。

・そのほか素晴らしい音楽を聴いたときに孔子は「楽」だけでなく「善」も感じて3ヶ月間
肉の味がわからなかったらしい。

・また、宮廷の音楽家の責任者に対して音楽のコツを教えたとも言われている。

以上の3点が孔子が音楽に深く携わり造詣が深かった理由である。

<儒教の「礼記」の中にある「楽記篇」>

①音が起こるのは人の声によって生じる。心が外のものに感じて動けば、声となって現れる。
声も変化する。哀しみや楽しみといった感情は、声、あるいは音楽に対応する。
②よく治まった時代の音楽は楽しい。乱れた時代の音楽は恨みを持ち怒っている。
③儀礼で音楽を行うのは、音の楽しみのためではない。正しい音楽によって、人々を
正しい道に導くためである。
④音楽と礼節は深い関係にある。音楽は人を同じにする。礼節は人の違いを明らかにする。
音楽の役割が強すぎれば貴賎の差別がなくなって、互いに敬愛することがなくなるし、
礼節が強すぎれば、貴賎の間の差別が強すぎてしまう。つまり両方が必要なのだ。
⑤天子が音楽を作るのは、臣下の者たちの徳を褒めるが目的である。徳の高いものには
多くの舞人が舞うことになるので、舞の列が密集する。徳が足りないものは舞人が少ないので
列がまばらになる。

<墨子の反論意見>

墨子の「非楽論」では音楽を見たり聴いたりすることは悪いことではない。
だが、その間仕事がおろそかになったり楽器や衣装を作るために犠牲になる人がでる。
それは非生産的である。

<旬子の「楽論篇」>

音楽には良い音楽と邪な音楽がある。人々をよい方向へ向かわせるのにはた正しい音楽が
必要である。

<ケイコウの「声無哀楽論」>
酒を飲んで楽しかったり悲しかったりするわけだが、酒自体が楽しかったり悲しかったりするわけではない。音楽も同じく哀楽はない。

中国では以上のような流れがあったが圧倒的に孔子の儒教が強く、他を圧倒していた。

3、ギリシャ

ダモン(BC.5)は国の制度の観点から良い音楽と悪い音楽をわけ、「音楽の様式は国家の重要な法律の変更無しには変更できない」と言った。

<プラトン「国家」>
音楽は徳と教育に優れた人を喜ばせるためのものだ。多くの音を出す楽器・複雑なリズム・
音階・半音階の羅列は不必要だと言った。

<アリストテレスの「政治学」>
ドーリス旋法(E音から全音のみの下降)が勇壮で沈着な性格にふさわしく、プリギュア旋法
(E音からの降下の際C♯になる)が熱狂的な興奮があるので劇にふさわしいと書いた。

このようにアリストテレスは音楽が人間に不可欠であることを主張した上で
特定の音楽を推進したり抑圧する態度を取ったといえよう。

第3章 近代社会における芸術文化政策

1.社会的脈絡の中での人間関係と社会の関係

ある個人が自分の芸術は歴史や社会から何の影響も受けていないと
主張したとしよう。しかし、ソノ芸術は自分が拒否するしないに関わら
ず、その人が誕生して以来経験してきた芸術から影響を受けている。
そしてその人がそうした芸術に触れることが可能であったという事は
社会とは無関係ではない。

2.当道と普化宗

<当道>

江戸時代に職屋敷を本拠として、男性の盲人を組織化し、階級的な官位を与え一定の経済的な保護を与えていた。
鍼灸・按摩などの医療行為に加え平曲(琵琶で平家物語を語る)・筝曲・地歌(三味線の室内楽的ジャンル)など音楽活動に関する独占的な
「教授権」を持ち、治外法権的な自治権も持つ。
最高位「検校」・中間位「勾当(コウトウ)」など。

<尺八>

明治維新までは特権階級を与えられていた宗教集団の楽器であった。
それは禅宗の一派「普化宗」と呼ばれるもので、そこに属するものは
「虚無僧」と言われ尺八を演奏することで禅や托鉢のかわりとなった。
明治4年に普化宗は明治幕府によって解体され、尺八は自由に誰でも演奏できるようになる。

このように一部の芸術団体を保護すると言うことは一般の人がそれに接する機会を奪うということになる

3.芸術文化の保護

芸術家に対して特別な庇護・保護を与えるパトロン制度に似た言葉で
古代ローマに期を発する「メセナ」という語がある。

<ベートーベンの場合>

ベートーベンは同じ名を持つ祖父への憧れと生活の安定から宮廷楽長をの職に就くことを願っていた。
フランス革命後ナポレオンが弟のジェロームをドイツ国王に任命し、
そこの宮廷楽長にベートーベンを任命した。だが彼は元敵国の宮廷学長になることを嫌い、逆にウイーンを去ることをほのめかすことによって
宮廷楽長という義務が生じるポストの代わりに対価を求めないパトロン
を見つけることに成功した。

・金額・・・毎年4000グルテン
・期限・・・ベートーベンがこの金額を受け取るに値するまで
      (ウイーンの宮廷楽長を意味する?)
・義務・・・ウイーンもしくはオーストリア皇帝が世襲する国に住む事

実際にベートーベンはパトロンの一人に楽器を教えていたが、代償をもらっていたので上の条件は純粋に遂行されたといえよう。

4.検閲

ベートーベンの第九はシラーの「歓喜に寄せて」を用いた作品である。
しかしベートーベンがウイーンに滞在し始めた頃、シラーの作品が検閲にひっかかり禁止された。
のちに検閲が解かれ、シラーが詩を変更して発表。その後ベートーベンは第九を発表している。(しかしベートーベンがシラーが禁止されている頃からシラーの作品を盛んに用いていたから、ころあいを見て発表した可能性がある)

シラーの詩の変更箇所(一部)
「乞食が王侯の兄弟となる」→「全ての人々が兄弟となる」

その後数々の検閲が入る交響曲に嫌気が差し室内楽作曲に転向したとも
考えられる。

5.日本の映画法にみる政策的発想

保護と妨害という二項対立から見ると、映画法はその両者を含んでいるようにみえる。

①映画事業の許可制度
②映画制作従事者の許可制度
③台本の事前検閲とフィルムの事前検閲
④外国映画の上映本数制限
⑤製作すべき映画の質と量と配給量などの権利を主務大臣が持つこと
⑥優良映画の推奨制度
⑦文化映画・啓発映画の強制上映
⑧興行時間(3時間以内)・入場者の区分(14歳を区分点とする)

現在の憲法第21条では
1、集会・結社及び言論・出版その他一切の表現の自由はこれを保障する。
2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない

とある。この矛盾点で現在も時々裁判が起こっている。


第4章 20世紀の全体主義的な芸術文化政策

1、全体主義的な国家
政治形態は一党独裁制。20世紀には大きな三つの全体主義的国家が出現した。
ロシア・・ソヴィエト連邦
イタリア・・ムッソリーニ
ドイツ・・・ナチス
ここではナチスドイツによって廃校にされたバウハウスの歴史をたどることにする。
これは第一次世界大戦からナチス政権の誕生までのドイツの政治状況のスケッチとなる

2、政治に翻弄されたバグハウス

<バグハウスの理念>
・あらゆる造形芸術の最終目的は建築である
・建築家・彫刻家・画家、われわれはみな手工に帰らなければならない
(造形の基本は手工の熟達である)

3、バウハウス関連年表

1918 11 第一次世界大戦終結
1919 4  クロービウス「ヴァイマール国立バグハウス」創立宣言
1920 6.6 共和国会議第一回総選挙
1923 8  バグハウス展(今までの成果を発表)
1924 4.24 国立バグハウスとテューリンゲン邦議会
   7  会計監査(不況のためバグハウスの予算の見直し)
   8  1925年3月末までの契約解除予告
   12.26 バグハウス廃校声明文
1925 5.24 デッサラ市でバグハウスの受け入れを決議
   10.24 デッサラ市で冬学期開始
1926 12.4 新校舎落成式
1928 8  クロービュス退陣、後任学長ハネス・マイヤー
   9.10 総選挙でナチス党と共産党が躍進
1929 10  ニューヨーク株大暴落
1930 8  マイヤー解任、後任学長ミース・ファン・デル・ローエ
解任理由はハネス・マイヤーがマルコス主義だと公言したこと。
クロービュスは以前の経験から学校に政治が介入することを嫌った
から。
1932 1.21 デッサウ市議会にバグハウス解散動請
   7.8 大臣・市議会議員のバグハウス視察
   7.31 ナチスが第一党になる
   8.22 閉鎖動議可決
   10.25 ベルリンでミース率いる私立研究所として冬学期開校
1933 4.11 家宅捜査を受けヒトラーにより閉鎖される
   7.20 閉校

バグハウスはユダヤ・マルクス主義の象徴する建物だと言われているが
実際はそうではない。民主主義・反議会主義・反ユダヤ主義を掲げる
ナチスの芸術文化政策の最初の犠牲となったのだ。

建物が壊されなかっただけまだよしとしなければならない。
現在バグハウスはユネスコの世界遺産として保護されている。
また数々の芸術家を生み、今でもデザインを学ぶにはバグハウスの理念
なしでは語れないといわれている。

第5章 明治時代における美術政策

1.はじめに

明治12年に結成された美術団体「龍池会」のわが国最初の月刊美術雑誌
「大日本美術新報」は芸術には色々な種類があるがわが国が元々持っている独自の芸術作品は「工芸」であり、これを奨励するのがこの雑誌の目的であった。

2、工芸の奨励

政府は工芸を芸術と言うより輸出して外貨を獲得する手段としたようである。

<明治維新の特徴>
・目指したのは文明開化
・その底にあった「西欧諸国とアメリカのみが文明国である」という意識
・それに追いつくための方策
①留学生の派遣
②お雇い外国人の雇用(膨大な国費が使われた)

<殖産興業としての工芸振興策>

・万国博覧会への参加

明治6年 1873年 ウイーン
明治9年 1876年 フィラディルフィア
明治11年 1878年 パリ

これら博覧会にわが国の工芸品を展示することと共に、各国の工芸品を
よく観察し、使用目的や技術を踏まえた上で値段を比較検討しろと明治政府が書き記している。

3、美術教育の導入

明治9年「工部美術学校」 講師をイタリアから招いた。わが国初の官立美術学校だが、西南戦争の影響(?)か明治15年に廃校となる。

明治20年「東京美術学校」(現:東京藝術大学美術学部)
明治11年にお雇い外国人講師と日本に来たフェノロサとその弟子岡倉天心が開校に協力。

明治35年 京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維大学工芸学部)

明治40年 第一回文部省美術展覧会

4、古美術の保護政策

明治21年 宮内省に臨時全国宝物取調局を設置
21万点を超える絵画・彫刻・工芸などの調査を行い、これを元に「古社寺保存法」を制定した。以後これが現在の「文化財保護法」に引き継がれている。

第六章 明治時代における服飾文化政策

1,はじめに

<日本の服飾文化と政策>

603年 冠位十二階
8Cはじめ 衣服礼
9Cはじめ 唐風模様
その後も各種の服制・禁令などがある

2,洋服との出会い

日本人と洋服との出会いは、16Cにさかのぼる。キリスト教布教のためにやってきた宣教師たちの衣服をみたのが最初。

1853年 ペリーの来航
1858年 オランダ官軍の服色及軍装略図
1861年 衣服冠(帽子)履(靴)等異様の製禁止の礼

一般の着用は禁じていても、一部の軍隊などには「外国製に紛らわしくないものなら着てもよい」とされていた。

3,洋服の採用

1)軍服制度

1867年 陸軍伝習隊 フランス式洋服
1870年 陸軍 フランス式(当時強い軍隊だから)
    海軍 イギリス式
1919年 陸軍 ドイツ式に変更(フランスが戦争に負けたため)

2)礼服制度

1872年 礼服制度
    大礼服
    通常礼服(燕尾服)
1877年 フロックコート(今はもうないが紋付き・袴に相当する略例             服)

女性はコルセットで締め付けて着るドレスだったことや社会的に表に出る存在ではなかったこと、着物が西洋の染色技術を取り入れて華やかだったことなどから洋服礼装は普及しなかった。

4、洋服への視線

1)西洋人の目

1877年ベルツの日記
「日本人の西洋の風習の誤った模倣ぶり、しかもグロテスクなまでの模倣ぶり・・・」

モース
「日本人のある者が、我々の服装をしようという企ては、時として滑稽の極みである」

ケーベル
「一種の美的罪悪である」

2)日本人の目

突然の洋装採用については当然賛否両論があったが、従来見慣れた和服の礼装とは違って、一種のあこがれを持ってながめられた。
身分や地位のある人の礼装を洋服にしたことによって、洋服は立身出世の目印となった。

5,洋服と和服

男性より遅く始まった女性の洋服は、制度とは無関係であったから、むしろ日常着として浸透し、和服が礼装の位置に残った。こういうことから洋服の男性と和服の女性が並ぶことになんら不自然を感じない。

第七章 明治時代における音文化政策

1.明治維新前後の音楽状況

①明清楽(ミンシンガク)

江戸時代に明と清から日本に伝えられ、日本に伝承されてきた中国音楽の総称。清時代の世俗音楽とそれを演奏する「月琴・笛」なども明治時代から日清戦争までは広く普及していた。

②洋学者による西洋音楽への関心
③西洋式軍隊とその音楽

2、明治政府による方針と具体策

1877年 音楽取調掛(1887年に「東京音楽学校」となる)
1881年~1884年 小学唱歌集は日本の古典によった歌詞を西洋音楽の旋律で歌わせるもの

<小学唱歌集の特徴>

■リードオルガン(またはピアノの使用)
■歌詞は忠君愛国・故郷の重視・日本の自然などに限定される

しかしそれより前の1877年に発表された「保育唱歌」は西洋音楽とは無縁で雅楽の作曲家が日本の古い音組織と楽器法に従って復古調にしている。

<保育唱歌の特徴>

■歌うもの 和琴(雅楽に使用される六弦の箏)と勺拍子(シャクショ      ウシ・・拍子木)が伴奏する
■遊戯用唱歌 勺拍子だけが使用される

その他学校以外ではヴァイオリンで演歌・軍歌を演奏する。

3、明治時代の邦楽の変化と洋楽有利の場

明治維新になったからといって邦楽の様式が突然変化したわけではない。それどころか名人が多数出て新曲が作られた。
(理由)当道と普化宗の廃止→箏と尺八への自由化
              中尾都山による「都山流」の成立
<教え方の変化>

今まで口頭伝承だった邦楽に西洋様式の「楽譜」を取り入れた。
これは大切なことである。

能・狂言の専門家はパトロンである幕藩体制が消滅したため、明治時代に入って経済的に困窮したが、華族、政治家、財閥、学者が理解することによって再び安定を得た。

4、東アジアへの影響

日本人は近隣諸国を見て、管弦楽団があるのが当然と思う傾向がある。
しかしこれはヴェトナムとモンゴルを含めて中国文化圏の特徴に過ぎず、東南アジア、南アジアでは西洋式管弦楽ではない伝統的な合奏が
力強く伝承されているのである。したがって、明治の音文化政策に由来する西洋化を、アジア共通のものと捉えてはいけない。

第8章 芸術文化政策としての芸術教育

1、教育と文化政策

(例)合唱コンクール 演目シューマン「流浪の民」
西洋音楽に日本語の歌詞をつけたもの。ピアノ演奏者は生徒。
このことからピアノを弾いてる子は学校とは関係ない所で(ピアノ教室)ピアノを習っている子であることがわかる。

2、楽器産業と音楽教育

1,900年日本発の国産ピアノが発売された。
1966年には338億円
1980年には1886億円
約15年で6倍の売り上げがあった。

■なぜこの100年間に西洋楽器が伸びたか

グランドピアノではなく、アップライトピアノ、電子オルガンが急激に売れていた。アメリカとの比較でも日本のほうが凄い。
これは楽器を単に楽器として使用するだけではなく、ピアノを持っていることが豊かさと教養の象徴であったから

■日本の楽器産業の特徴

①多品種生産主義
ハーモニカからピアノまでを1社が引き受けている。こういう大企業と無数の小企業がある。海外では一品種に専門業者がいるのでこういうことはない。

②音楽教育との密接な関係
学校への販売・独自の音楽教室の運営による楽器販売
学校教育法で学校内にピアノの設置を義務付けていること

3、日本の音楽文化

■小中学校の音楽の授業だけでは楽譜が読めるようにならない。
いわゆる「音楽教室」(音楽塾)がプロを育てている。

(例1)YAMAHA音楽教室
親が一緒にレッスンに通い、家に帰って復習をさせる、グループレッスン。
(例2)インターナショナル・オリジナルコンサート
自分の作曲した曲を演奏する場

■学校教育では先生を選ぶことが出来ないが、音楽教室は魅力がないと
簡単に辞めることが出来るので、企業側も魅力のある教室運営を
目指している(競争原理)

(例)企業側の魅力をつけるトレーニング・・カワイ教育カレッジ
(講師が新しいシステムや教材について勉強する)

■最近の特徴

最近は少子化で生徒募集はしんどい。4歳からの「おけいこ」という
位置にピアノ教育があるので少子化が進むと生徒が減るのは当然である。しかしピアノのおけいこ自体は上昇傾向にあり、アップライトピアノの売れ行きは伸びている。

これは、海外で日本の企業がマニュアルを持って行っているからである。またピアノは流行音楽をも扱えるので、生涯学習としてピアノを取り入れることもある。

2002年に指導要領がかわり「和楽器」を導入することが示唆された。
ただし「指示のみ」で具体的な方法は各自治体に任されている。

■文化政策としての音楽教育のあり方

①政策がひとつの音楽文化に肩入れしない様なシステム作り
②音楽文化を意図的に文化行政の中に取り入れる仕組み
③1、2を常に第三者的に冷静に提言していくシステムの構築
④文化行政と経済活動をバランスよく混ぜ合わせる視点が大切


第9章 国を超える芸術文化とその政策

1、芸術と越境

芸術文化が他の芸術文化に接するためには、芸術文化自体の移動が必要である。その移動には大きく分けて2つの形がある。

1、芸術文化、例えば音楽が人間の移動を伴わずに移動する場合。日本への西洋音楽の移動は、楽譜を中心に導入されたもので、人間の移動を伴わないほうに分類される。

2、芸術文化が人間の移動を伴って移動した場合。移民など

2、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の実験

国を超えて芸術文化がが移動し、なおかつ人間の移動を伴って起こった例を一番良く持つのはアメリカである。アメリカは移民の国である。
「民族音楽学」という名称が1950年代に提唱され、定着したのが1960年代である。

特徴①アジアやアフリカなどの音楽様式の伝承者を大学に招いて、実技指導を開始した。
②アメリカの学生を、アジアやアフリカに長期的に滞在させ専門教育者を育成したこと。
③当該地域の音・映像・楽譜・文献を集めた資料室を作ったこと

これらにより「音楽は一種類ではない」ということをまず世界に発信した。これはとても重要なことである。

3、日本とヴェトナムの関係から

雅楽は韓国語でa aku、ヴェトナム語でnha nhacとなる。この3つの地域はそれぞれに中国の宮廷音楽を移入して、それぞれの文化にふさわしい形に変容した。

1945年になってヴェトナムでは戦争のため宮廷音楽が消滅。後に(1970年)トヨタ財団の研究助成でベトナムに行くと、現地調査の結果、若い伝承者がいないことが判明した。そこで協議の末、大学レベルで教育することが望ましいという結論に達した。
その後2000年には1期生11名が卒業した。

■なぜヴェトナムに援助する必要があるのか

日本がユネスコに拠出している費用が、様々な国の芸術文化に使用されていること。また日本政府がワルシャワ音楽院に15台のグランドピアノを寄贈したこと。いずれも、その背景にあるのは、ある芸術文化は、それを作り、伝承し、保存してきた民族や国だけのものではないということである。芸術文化は国を超えるので、その政策も国を超えて考えなければならない時代になっている。

第10章 少数民族に関する芸術文化政策

1、なぜ少数民族を扱うか

・少数民族の音楽をきちんと文献に残すことは後生の研究に役立つ
・少数民族だからこそ、残す必要がある。なくなる可能性が高い
日本音楽を考える場合、今はもうハワイやアジアの周辺の国々で日本音楽がどう扱われているかを考えなくてはならない。伝統音楽はもはやその位置にいる。

2、「アジア伝統文化の交流」企画から「ヴェトナム少数民族映像記録」へ

ワークショップ受講生の作成テープの傾向
・カラオケテープの映像に似ている
・絵と音があっていない
・演奏と風景をごちゃ混ぜにしてしまう

以上のことから文献として残せるような映像を作る必要性がある。

■アメリカでカンボジアの伝統舞踊を教える人のインタビュー

・なぜヴェトナムの舞踊をしようと思ったか

国を離れるのが怖かったからです。大学時代は海外にも舞踊をしに来ましたが他にメンバーもいたけれど、今回は一人だからです。
そのとき自分に唯一あると思えたものがカンボジア舞踊でした。
私が得意とするもので、誇りに思えるものだったから、それを伝える事で社会に貢献したかったからです。

・現状について

アジアコミュニティの支援はあります。アメリカでのカンボジア人の雇用促進や医療サービスもあり、舞踊のレッスンは無料で受けられます。
楽器や衣装を手に入れるのは難しいです。
カンボジアでは舞踊のレッスンはプロの舞踊家を育成するためにありますが、ここアメリカではカンボジアの文化を知り、理解することが目的なのでレッスンの厳しさが違います。ですがそれでも私は例えば手の向きなど細かいところまで注意するように教えています。
文化があるからこそ孤立しないと思っています。

プロフィール

Mikami Kako

Author:Mikami Kako

おことわり

保育士・図書館司書に関しては、旧システムによるものなので、現在のもの科目編成や内容にずれがあります。放大についても閉講科目が含まれます

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