1.Zedle Smith, On Beauty(1)

p.12
パディントン駅についてドアが開き、彼は埃っぽい駅に立った。
彼は、スカーフを丸めて、ポケットに詰め込んだ。
彼以外に旅人はいなくて、彼は周りを見渡したりせず、インテリアや鉄やガラスのはめられた複雑な天井飾りも眺めたりしなかった。
彼はタバコを丸めて吸えるような場所に真っ直ぐに向かった。
雪がないということは、まったくもって素晴らしかった。
手袋なしにタバコを持ち、空に顔を晒すことができるなんて、なんと素晴らしいことか!
ハワードは、街の景色に感動することはほとんどなかったが、今日はオークの木とオフィス街が青い空に縁どられており、どちらにも白い雪に邪魔されていないというこの風景が、たぐい希な洗練されたものとして彼の目に映った。
日が当たっている細い通路で一息ついて、ハワードは柱によりかかった。

p.13
黒いタクシーは列をなして並んでいた。人々は、人々はどこに向かうかを説明し、後部座席に気前よく荷物を積んでもらっていた。
ハワードは、5分間に2回も「ダルストン」という行き先を聞いて、面食らった。
ダラストンは、ハワードが生まれた小汚いスラム街の東の端っこで、彼をつぶそうとする汚い人々であふれてた。彼の家族もその一員に含まれていたのだ。
しかしながら、現在は、まったく普通の人々が暮らす場所のようだ。
パソコンを持った淡いブルーのコートを着て鉢植えをもったブロンドの女性や、叩かれた金のように光沢のある安物のスーツを着たアジアの男性が、彼の記憶の初期の頃に残っているイーストワンダーの地に住んでいるのは、想像もつかないことである。



p.14
私たちは、「植民地独立後」についてあらゆる文献をもとに、長い間学びました。
あなたたちは、基本的な特徴や、作者の見解が述べられた情報をもとによく考え、あなたなりの視点でそれを見て学んだことでしょう。
それらの成り行きとあなた方が学ぶための引用を正確にするために、いくつかのタームを巻き込む必要があります。
まず最初の「植民地の文献」は、しばしばはっきりとした定義をもたず、文献は帝国の力によってかつて植民地にされた国から生まれた「植民地独立後」と呼ばれている。

p.15
これらの解釈から私たちは、もちろん、国家と時間枠の大まかな範囲を覆うようにはっきりと明確にしなければならない。
植民地独立後の文献は、しばしば直接的に/または、植民地化の余波を与える:国と人々の両方の革命のための建物;植民地時代に与えられた労役の規則をふりほどく中から起こった問題;私たちは、それぞれ自分の歴史を覚えておく必要がある。排除と制限、それらは苦しいことかもしれない。そしてそれは最後の革命になり難しいけれども、真実に向かう。
このようにして、独立後の学習と理論は、個人がどのようであるかをよく調べることであり、社会と国は彼らの植民地の歴史に答えるものである。
村のルールと最後のの革命の遅いステージをカバーする最後の事実として扱われる。
植民地の学習で、アイデンティティの背景と最も関わりのあるものは何かというと、個人と人々のための声と場所である。
独立後の文献は、一般的な植民地開拓者の反応を通じて、新しい声と意味を開拓し、それは新しい言語と物語になった。

現代では、全世界で、国境はかすみ、国は互いに影響し合い、より境界を行き来し、人びとの文化の交流に役立っている。

p.16
その代わりに、これらの会議は、独立後の文献だけでなく、文化的な記述と英語の言語の中で交差されて表現された。
私たちは、テキストに影響する翻訳のプロセスを吟味し、それらの中心の主題を何かを失うーそして、想像されたー翻訳の中で。
私たちは、はっきりと見えるかもしれない文献の方法について吟味する。
珍しさは、世界的な命題を通過するにも関わらず、それぞれの文化を結びつける。
そして最後に、私たちは、それらの関連をみたいと思うだろうー私たちが存在する世界とアイデンティティをより含有するために、それぞれの世界観を理解するもととなるだろう。


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Zedle Smith, On Beauty(2)

p.21
「オポチュニティ(機会)というものは権利である」と、モンティは周囲に聴こえるようにはっきりと話した。「しかしそれは贈り物ではない。権利は勝ち取るもの。そして、機会というものは、しかるべき道筋を経て手に入れるべきだ。そうでなければ、その制度は根本的に価値が下がってしまう」

彼らのまえにある木が、枝から棚一段分の雪を通りに落とした。モンティは、キキが通るのをとめようとして、彼女を守るようと腕を伸ばした。モンティは2列積み上げられている細い水の流れを指差し、2人はこれに沿って歩き、広いところに出たが、結局消防署のところで公道に戻った。

「でも・・」キキは抗議した。「そもそも、この問題の本質は、ここ、アメリカでは、ヨーロッパでは事情が違うことは認めるけれども、でも、ここでは、等しく与えられるべき権利が奪われたなごりで、著しく阻害されているというか、滞っているというか、どう表現してもいいんだけど、まったくそういう状態であって・・

p.22
それを正すためには、何らかの手当や特権や手立てが必要ということではないの?釣り合いを戻すことが大事なの。機会均等が長いことバランスが取れていないから」私の母が住んでいた1973年には、人種分離バスを見ることができた。それらは真実である。つい最近のことだ」

「犠牲者の文化を助長する限り」モンティは話したけれども、その中には、自分自身の中に平穏したリズムをもっていた。なぜなら、こういう会話に慣れているから。そして、「えっと・・」キキは言った。柵を握って大きな水たまりをドサりと飛びながら「わからないけど・・私たちは犠牲者を作り続けるのです。そして、成績不良の悪循環が続く。何か臭うのよ。・・私たちが黒人が与えられた権利について反論する場にさんかする人々を見た時に自己嫌悪に陥る時のように。

p23
私はこう思う・・私たちにはこの時点で議論は必要ない。戦争が起きてるのよ。地球の反対側で、黒人の子どもたちが戦場の最前線で死んでいってるのよ。・・なぜ黒人の子どもが、前線に入っているのかと言えば、彼らは大学は自分たちに何も与えてくれない(大学から得るものはない)。そう思うから、軍隊に入るんだ。これがこの国の軍隊だ。

p.24
ザドル・スミスは英国の小説家で、ブリテンは植民地化された他の国々よりもより植民地として正常に関連づけられる。それはおそらく、植民地独立後に書かれた書物として、彼女の代表としての力をもっているだろう。植民地独立後に書かれた書物を検査するとき、テキストそのものに表された植民地独立後の関係を理解するために表された詳細がとても重要であることがある。

スミスはロンドンで生まれたけれども、彼の形成期は、植民地と植民地独立後の母の伝統も鋭く受けた。ジャマイカから他国に移住したり、英国の村の田舎町、1969年のブリテンまで。それからだいぶたって、彼女は確かに文化交錯作家となり、それらの側面から問題を調査した。

このシリーズのはじめは、とても重要です。なぜなら、とても一般的な植民地独立後と文化交錯の文学だからです。その区切りは、背景への願いといくつかの「家族」に属し、誰もが拒絶されたり、受け入れられなかったと感じる根本だからである。ハワードの性格は、例えば、彼が何かを基本としていたとしても、何かがしっかりとした変化を遂げたことを覚えている。

p.25
植民地独立後の概念は・・そしてますますグローバル化され、それは国家を超えた・・一度も変化せずに永続する。我々の多くは、「故郷」について曖昧であるけれど、このような想いは、移り変わりの一定の状態である。移り変わりは、多文化社会に存在するより一層明白なことであり、またそれらは混成の遺産からきている。

ハワード、誰が見られた背景について答えをだしているのか、彼自身が決めることができる。努力して属そうとし、属するために必要でないものでさえそうである。

これらの矛盾する理由は、このように文化が交錯する性格をもつこと(おそらく、この著者が作ったキャラクターだと思われる)が、社会のシステムから離れたいと時々感じるような中に、彼らは存在する。そして、彼ら自身が不適格だと思われるような不適格な社会でさえ。

これらは複雑な感覚である。どのような感覚かというと、植民地独立後または文化交錯の中で個人が、そこに深く属したい思うだけでなく、不適格でありたいと願うことでもある。そして、2つの見かけでは正反対のものの間で時々ぐらつく。

Zedle Smith, On Beauty(3)

p.30
モンティは、首を横に振って微笑んだ。ミズ・ベルセィ(キキ)・・あなたは、その生徒がアメリカ陸軍に入隊しないようにするために、資格のない生徒達を、私のクラスに入れるべきだというのですか?

キキと呼んでね・・そういう風に言いたいわけではないんですけどね、でも、この自己嫌悪ときたら・・。私がコンドリーザ(政治家)やコーリン(政治家)を見ると、まったく!気分が悪くなるわ!・・私たちを残りの人から引き離そうとする猛烈な力があることがよくわかるんです。・・まるで「自分たちは機会をいただきました。さよなら」と言いたいかのようにみえる。
黒人の中に蔓延しているのは、保守派の黒人が持ってる、あの嫌悪感よ。こういって、あなたを怒らせたのなら申し訳ないけど、でもそれも問題の一部ではない?もはや、政治の話をしているのでさえないわ。これは、これは、ある種の心理状態の話なのよ。

p31
彼らは、ウエリントンの丘の頂上につき、様々な教会の正午の鐘を聴いた。足元をみると、あたりは雪のベッドに包み込まれたようにとても美しく、そこにはアメリカの町の裕福で教育水準の高い街が横たわっていた。

(モンティのセリフ)キキ、もしあなた達自由主義者について私が唯一理解できることがあるとすれば、それはあなた方がいかにおとぎ話を語ってもらうのが好きかということです。あなたは創世神話に文句を言ったりもするけれども、あなた自身もいくつも同じような話をお持ちですよね。自由主義者は、保守派の人々が自分たちと同じぐらいこうだと信じている倫理的な信念を動機として、保守派の人々が行動していることを決して信じてくれない。あなたたち(保守派)は深い自己嫌悪や、なんらかの欠点を動機として行動しているということを選ぶのです。でもあなた、それは最も気の休まるおとぎ話ですよ。(自由主義者は自分の信じたいことを信じているおめでたい人たちである)

p.32
ゼドル・スミスは、彼女の本に「On Beauty」と記載させた。そしてそれは、1910年のハワードエンドである。これは、スミスの本の中の構造からみることができ、それはフォスター自身の仕事と結びつけることができる。
しかし、スミスが書いたことは、それ自身の権利がある権威あるイギリス文芸のためのレスポンスを含んでいた。
英国の権威とは、それとウイストンの基準は何かという言葉(特別な英国の視点)という、高いレベルの言語になり、深く達成される。

このような用語は、近年疑問視される。なぜならそれは除外された他の文化から多くの言語を考慮されないからである。そしてそれは、ウエストンの起源ではない。しかし、英国帝国主義と植民地の長い終焉の間で規準は、特に高い注意が払われた。多くの植民地化された国々の中で、英語を話す学生は、正当に英国書物と詩を排他的に教えられた。これらは、しばしば植民地のリーダーに圧力をかけ、文学の中の世界的なテーマのアイデンティティにできた。

しかし、ヨーロッパ人のセッティングと関心事は、そう多くはなかった。このような文学を読めとは言っていないことは、社会ではなくむしろ個人に価値がないとみなしており、むしろ、

p.33
地方のテキストを排除し、正当なテキストのみを議論することは、これらのテキストにブライオリティを与えることであり、エリート意識を促進し、他の国々より本来備わった価値もっていることとしていくつかのヨーロッパの中で位置づけられるかもしれない。

生徒なテキストを読むだけのことは、世界的観点から利点をもつという意味があり、ウインストン文化と芸術はウインストンカルチャー以外の文化と芸術にほとんど関わりをもたない。

伝記上、ザドル・スミスは、ヨーロッパとそうでない国のアイデアから影響を受けた。おそらく彼女の働くクラスで反射され、植民地独立後とエリート教育がキャラクターを作り、イデオロギーの立場からの用語の分類を簡単にしないのであろう。

これは部分的なものである。なぜなら、常に良質の文学は、作者のアイデアを反映しているから。しかし、それはまた、植民地独立後と文化交錯の中で著者は時々、子どもの時に躾けられた社会的な文化との間で精神的な葛藤が出現することがある。

スミスや他の者のように彼女が書いた、オンビューティのキャラクターは、例えば、彼女の中で一致した教養と保守的思想の合致で書かれていて、彼女自身の生活と彼女の多文化的な背景をもっている。

英語圏の言語と文化4

p.38
「あなたは、私たちはすべて農民だと思っている」とチューは言ったが、それは少しの恨みもない主張で、あたかも客観的に興味を持ったように聞こえた。「でも、私たち全員がこのような汚い所に住んでいるわけではない。フェリックスはウイリンストンに住んでいるだぜ。あなたはそれを知らなかっただろう。豪邸だぜ。彼の兄が、そこでタクシー会社を経営している。やつらはそこであなたを見かけたってさ。

リーヴァイはひざまづき、チューの後ろに背中を向けたまま立ち上がった。彼は人に向かって嘘をつくことができなかった。「えっと・・私の私のおじさんがここに住んでいる。おじさんのためにちょっとだけ仕事をしてあげたりとか。庭のあたりのこととか・・」

「俺は火曜日にあそこにいたんだ」とチューが言い、彼を無視した。「大学にだぜ」。彼はこの言葉を自分の舌の上のインクのように扱った。「クソいまいましく猿のように給仕したんだ。先生がだぜ。苦痛だぜ!俺はあんたにはっきりそう言える。なぜなら俺はわかってるからだ」と言いながら胸を叩いた。「この胸が痛むんだよ」

p.39
彼は突然正座した。「私はハイチで教師をしていたんだ。何だと思ってるの?私は高校教師だ。フランス文学と言語の!」
リーヴァイは口笛を吹き、「私はフランス語が嫌いだ。やれやれ・・難しいからね。大嫌いだ」

「それからね」チューは続けた。私の従兄弟が、彼らに給仕をすれば、手取り30ドルもらえるからやれ。プライドなんか捨てろとね。格好悪い制服を着て、彼ら(白人の教授)に小エビとワインを配るのよ。私たちは、30ドルさえもらえなかったんだぜ。私たちは自分のユニフォームを洗濯するために支払わなければならない。残りは22ドルだ。

チューはマリファナをリーヴァイに渡したが、リーヴァイはもう一度それを断った。「教授はいくら儲かるとおもう?」リーヴァイは「知らない」と答え、「それは本当だ」と言った。彼は自分の父親から20ドルだしてもらうことさえ困難だった。

p.40
「かれら(教授)はチップをセント単位でしかくれない。相変わらずの隷属状態だ。何も変わらない。糞野郎!」チューは言った。しかし、彼のなまりのせいで、それは無邪気で滑稽に聞こえた。「アメリカの音楽はもうたくさんだ。ボブ・マレーがいい!ボブ・マレーが聴きたいよ!」

p.41
私たちが「奴隷」という言葉について考える時、普通は物理的に奴隷にすることを思う。自由そのものや自由を選ぶ権利を奪うシステムの中で強制労働させられた人々だ。奴隷制度は現在もまだ各地で存在している。自由主義者からは咎められているが、奴隷制度のあとのことは、個人と文化の分岐点で考慮されなければならない。

奴隷化は個人の問題であるだけでなく、心理的にも長く影響を与える。そしてそれは世代を超えて続く。奴隷制度の過去をもつ多くの人々は、未だに彼らの外縁に見られ、時々しゅりゅ社会で酷使されるが、あきらかではない方法で隠されている。

いくつかの侮辱、彼らや彼らの祖先がうけた侮辱は無実の犠牲者であり、自己嫌悪と恥を感じる。

p.42
「奴隷」それは多くの形をもつ:政治的立法や不法な行動、経済的な困難、強制移住、権利や健康からの民族性の排除。これらの排除の形は、よりかき乱される。そしておそらく巧妙に。しかし、まだ影響は多く、今日の社会に根差している、

オンビューティのチューのキャラクターは、例えばハイチから移住した黒人として、深い拒絶と危機を彼の新しい家庭で感じており、国家の中の植民地独立後の少数民族として例えられていた。キキは、物語の中でアフリカンアメリカンとして描かれていた。彼女の南米のアイデンティティから文化の人種と表現を早々に超えたものとして。

犠牲的行為の努力と侮辱は、世代を超えて愛され、多くの人種に包み隠さず「自分自身は何者か」ということを深く考えさせてくれる。

5.狂気と正気のあいまいな関係

p.48
ヤン氏は再び言った「これは私のお気に入りの詩だ。私の命を救ってくれた詩です」
「どんなものですか?」私は再び興味を持ってわくわくして聞いた。
「文化大革命が突然起こった時、私は悪魔の化身として非難された。なぜなら、その前にいくつか外国の詩を翻訳していたし、ゲーテは偉大な詩人だ主張したからね。
時には、革命の反乱軍兵士が大学構内にいて、私の名前を書いたバカ帽子をかぶらせることもあった。
時には、彼らは私の身体を曲げるために私の首の周りに水をはったバケツをぶら下げて頭を下げさせるようにした。
時には、彼らは洗濯板の上で膝まずかせた。
私の膝が出血し始めた時でさえ、彼らは私が立つことを許さなかった。しかし、拷問の間、私はゲーテの神曲を暗誦したのだ。

p49
彼らは物理的に私に傷をつけるが、心までは支配できなかった。常に私は目を閉じ、地獄篇のシーンを見ていた。彼らに目を開けるように強要された時、私の周りにいる狂った人々は、地獄にいる悪魔や怪物だと想像した。彼らは、希望を持っていなかったから残酷で死にもの狂いだった。神曲を暗誦する間、私の苦悩は煉獄に入るのを助けてくれているのだと感じていた。(地獄⇒煉獄⇒天国)私は希望を持っていた。
苦悩は、魂を鈍化することができる。煉獄の向こうには天国がある」

「あなたはキリスト教徒ですか?」と私(ジアン)はうっかり口に出した。なぜなら私は彼がなぜこのような長い詩を記憶しようとしているのか理解できなかったからである。

p.50
「ちがう。私は宗教はやってない。しかし、その時、拷問下では、私はキリスト教徒になることを望んだ。なぜなら心から神に祈ることができたから。『宗教は、精神的な麻薬である』と、マルクスは言っている。それについての疑いはない。
まだ時々人々は痛みを緩和するために、精神的な麻薬が必要だ。ただ、肉体だけで苦痛に耐えることはできない。
ともかく、この詩は私を助けてくれて、私をなぐさめ、元気づけ、私が死を想う時を乗り切らせてくれる」
先生はしかめつらをして手をあげ、自分の喉をしめて分厚い舌を付きだした。

p.51
先生はそういうと、煉獄編のコピーを机から取り出し、私に振って見せ、あたかもそのもろい本が無限の力をもっていることを確信させた。


p.52
彼が作家として知られるハ・ジンという名前は、アメリカに移住した著者の名前である。彼は初めに中国について書いた。しかし、英語で書くために、彼自身の語である、彼の仕事の保護地域である。
植民地独立後の作家になることはむしろ、祖国から離れて外国で暮らしている作家として評価された。

ハ・ジンは、アメリカで本格的に新しいアイデンティティを築く間に、自ら課した、彼が生まれ育った国からの亡命に耐えていたのかも知れない。彼はすでに部分的に移行することを望んでいたかもしれない。なぜなら、彼のアメリカでの学問は、子どもの時に経験した1989年の天安門事件と、異なったイデオロギーと文化の背景を採用した彼のこのような決定は、深い政治的なものである。
彼の言語の選択は、このようにみえた:英語を選んで書いている時は、中国人のハ・ジンの分岐であり、帝国主義と倫理学とモラルを積極的に採用したアメリカとして知覚された。少ないイデオロギーをもつ母国を批評するハ・ジンとして。

p.53
この、ハ・ジンが隅々までいきわたるように書いている東西の融合は、我々がこの本の冒頭から感じることができるかもしれない。ヤンのキャラクターは、「宗教は麻薬だ」という、マルクスの説に裏付けされており、耐える人びとにとって必要な麻薬であるとみられている。
ヤンは、キリスト教徒ではない。社会的迫害、または植民地独立後の人びとの間でキリスト教哲学を支持するテキストのなかで慰めを求めている。なぜなら、本質的に人間は希望をもつ。うわべだけの望みかも知れないものでさえ。極度の状況に追い込まれ救いを求める時は。
ダンテは、宗教思想と文学と、われわれの生活の中での理解し、文化と哲学を文学の語句と離れた位置でそれらを高めたのかも知れない。


狂気と正気のあいまいな関係6

p.58
ドアのところでフクロウは、再び演説をぶっていた。私は彼をフクロウと呼ぶのはなぜかというと、彼の名前を知らなかったし、彼の身体は小さく、顔が丸かったし、黄色い目にふさの多い髪の毛、ワシのような曲がった鼻から、私はフクロウを想像したからである。

彼は錯乱した人ととして知られているが、30年前は化学科の講師だった。1950年代後半、彼は右翼の烙印をおされ、逮捕され、シベリアに近い政治犯収容所に送られた。彼は、毎日打たれてたり重労働を課されている他の囚人をみて、拷問と苦しい労働には耐えられないで自殺したのをみると、彼は狂人のふりをはじめた。

彼は大声でスローガンを叫び、歌を歌い、動物の真似をし、自分に泥や大便を塗りたくった。彼はそうやって鞭打ちや拷問から逃れたのであった。

p.59
彼は20年以上バカを演じ、犯罪者の中でもっとも長生きした。しかし、見せかけの狂気は、本物になってしまう。彼は解放された時、彼は自分自身をコントロールできず、毎日わめき、ののしり続け、心を抑制できず苦しんでした。彼はしばしば笑い、泣き、威張りたてた。あなたが彼により注意を払うと、彼の世界はもっと紅潮した。食堂は彼の演説で有名な場所である。「同僚のジョージ・ブッシュは、最高の反革命分子である」と彼は時代遅れの言葉を使って説明した。

p.60
「ブッシュは、もっとも腹黒いやつだ。私たちは彼を滅ぼし、彼を広場で打ち、彼を踏みつぶし、再び立てないようにしなければならない」彼の言葉は残忍であったが、朝飯を食べる人の興味を引くことはなかった。これが毎日続き、人びとはうんざりする。

客の反応が悪いと思ったフクロウは、違う方法を試みた。彼は突然歌い始めたのである。「東の風に~~♪」奴は小さい拳で拍子をとり、狂乱状態で歌ったが、その拳の関節は潰れていた。

p.61
もう長いこと時代遅れになっている歌など、誰も聞かなかった。しかし今日は、彼のキチガイ声が僕の神経に触り、私は「うるさい!」と叫んだ。

あたかも私も狂人だといわんばかりに、人びとはこっちをみる。フクロウ大喜びして「見よ!同士たちよ!彼はアメリカ帝国主義の味方だ!」と叫ぶ。

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狂気と正気の曖昧な関係7

p.68
(ジアンは自転車でヤン教授の病院に行こうとしている)
私がスイフトホースロードの角に着いたとき、黄疸の中年男が現れ、オレンジの紙でできた小さい旗を振っていた。「共産党を倒せ!」と叫んでいる。
彼の叫びを繰り返すものは誰もいないが、すぐに彼の周りに20人程度の群衆が集まった。
彼は、三角形の旗を再び振り、鈍い音を立て、「社会主義はいらない!」それでも、群衆は静かで、恐怖や混乱のなかで彼を見ていた。

彼がさらに叫ぶ前に、3人の私服警官(男2人・女1人)急いでやってきて、彼の髪の毛と腕をひっつかみ、後ろから彼に手錠をかけた。「助けてくれ!」と彼は叫んだ。彼の目は丸くなり瞬いている。彼の首はしっかりと引っ張られている。

p.69
彼の口は唖然として、よだれが落ちた。「もう奴隷になるのはやめるんだ!」彼は、肩ごしに我々に叫んだ。

誰も割ってはいるものはいない。代わりに、O脚の鍵屋がそこにきて、長いパイプで3度、彼の脳天を打った。「うるさい!あなたはよくもワシを奴隷呼ばわりしやがったな!」と怒鳴った。
「うっ痛い・・私を叩かないでくれ、おじさん!」と男は叫んだ。まもなく彼の頭から血が流れた。何人かの見物人は笑った。

p.70
「ざまあみろ!救いようのない反動主義者め!」と、年老いた錠前屋は笑いながらいい、地面から自分の帽子を取るためにかがんだ。
若いハーブ行商人が「なんて馬鹿なやつだ」と言った。「彼は警官があちこちにいるのを知らなかったのか?」

3人の警官に引きずられながらも、男は抵抗して荒れた。時々彼は膝をまっすぐにし抵抗したが、それでも警官たちはその男を引っ張っていった。警官の一人が、彼をベルトのバックルで彼の肩を打ち続けたし、女の警官が彼の膝の後ろを蹴った。わずかの間に、4人は散髪屋のドアのの前をすぎて消えて行った。

p.71
このような騒動の中でも、眉毛に白髪の混じった靴職人は、何本かの釘を靴底にさしながら、決して革靴の靴直しをやめなかった。多くの人々は、拘束された男について話した、彼は愚か者だといい、少なくとも彼の家族の最低1人は、共産党員によって処刑されたのだと言った。

学生たちは、彼らに部が悪い(勝ち目がない)ことを悟り、用心深く、突如正しく行進した。時々彼らは、製鉄所で働く労働者を慰めるために「労働者ばんざい!」叫んだ。
学生たちは少しずつ、道何本かの向こうにある市庁舎に向かっていた。一旦広場から人ごみをぬって通り抜けると、僕は自転車に乗ってフルスピードで病院に向かった。


p.72
圧政に関する多くの文章のなかで、拷問の描写は、文字通り記号であるとともに、表現であることは、全体主義の政府と深く結びついている/植民地化の方法としてー人々の文化のものとして企てられた。
拷問は、物理的または心理的なものであるかもしれないが、しばしば、その2つは固く互いに結びついている。
何人かの作家の間では、このような不幸な描写は、直接的であり、他の者にとっては深い個人的な経験である。
我々は、奴隷制度の関係を討論したーそれは、共同生活者または祖先の思い出として共有され、深く心にとめた。
なぜなら拷問は、時には、反対者が、全体主義者のなかにある極端な政府のイデオロギーを通るツールであるからだ。
そして、植民地のシステムは、抑圧された多くの人々が存在する。

p.73
そしてそれは、煉獄であり、知識人が反論できないようにわざと鈍感にさせるような状況を作る。
そしてそれは、彼ら自身がみる。

異論を唱える少数意見は、文学の中での評論や疑問のなかに当然含まれるが、蛮行として鎮圧され静かになる(自己機関の静寂)
政権は、その時まず権力を使うことができる。そして、数々の方法を使ってそれらをコントロールする。
物理的・力・経済制裁、政治圧力、宗教、差別などの力である。
しかし、これらのコント―ルール力は、彼らがしいたげられた時の個別の心理的反論を表わした時の本当の力であり、自己検閲が生じる、彼らは進んで意見を言うのをやめはじめた時、個人レベルでの完全な植民地化が生じた。


8. 隷従のトラウマ

p.79
「男なんて所詮男でしかない」と、ベイビー・サッグス(セスの夫の母親:姑)は言った。「でも息子は?息子となればいっぱしの人間さ」

それは多くの理由で筋が通っていた。なぜなら、それはベイビーの人生において、またセスと人生と同じように、男と女はチェスのコマのように動き回っていたからである。(白人が黒人を動かすという意味もある)
誰もがベイビー・ザッグスが愛したのは言うまでもなく、彼女が知っていた人のうち、逃亡するか絞首刑になるかいずれでもなかった人は、借りたり、貸される、買われる、連れて行かれる、蓄えられる、抵当に入れる、盗まれる、押収されたりした。
そこで、ベイビーの8人の子どもは、6人の父親を持った。
この中に彼女の子どもが含まれているからといって、誰もチェッカーの遊ぶのを止めてくれなかったからといい、彼女はこれを「人生の不愉快さ」と呼んだ。
ハルは彼女が一番長く手元に置いておくことができた息子だった。20年間。人生と同じだけの長さだった。
まだ永久歯も生えていない彼女の2人の娘が、彼女がお別れを言うことができないうちに売られていなくなってしまったことを聞いた、という埋め合わせとして、彼女に与えられたことは疑いの余地もなかった。(自分の娘が売られたことを聞いた)

p.80
彼女の3番目の男の子を手元においておくのと引き換えに、彼女は4カ月間、現場監督と性交渉を持たされ続けた/翌年の春にその息子を材木と交換させられ、自身は約束を破られ妊娠させられた。
その子どもを彼女は愛しておらず、残り(後の7人)の子供を愛さなかった。
「神様が奪おうと思ったものは奪われますように」と彼女は言った。
そして神は奪った、神は奪った、神は奪った、それから彼女に自由を与え、ハルを与えたが、ハルが与えてくれた自由は、何の意味もなかった。

セスは、自分の全員の子供の父親であったいっぱしの息子と、6年間も結婚しているという驚くべき幸運に恵まれた。
それは、スイートホーム農場が、あたかも本当に安らかな家であるかのように、彼女が向こう見ずにも当然しし、降りかかった神の恩寵であった。

p.81
まるで、白人女の台所にもたれさせてあるアイロンの持ち手に、ひとにぎりのギンバイカを挿しておくことで、それが彼女のものになるようなものである。まるで、口の中のハッカの小枝が、息の香りとともに息そのものを変えたように。
(これらはすべて錯覚である)これ以上の愚か者はいなかった。



p.82
アフリカアメリカンの著者と学歴は、トニー・モリソンで、無邪気さを失っていたが、書くことでアイデンティティを取戻した。それは、個人的な描写と、追いやられ支配された関係を通じて。
それらを圧迫する力に、まだ属しているが、彼女は多くの黒人がもつ進行中の不安を急いでいる。
奴隷制度は、残っており、アイデンティティの根本に内在し、想いとして存在する。
逆説的に言うと、すべてはまだ覚えるために苦しんでいる。

アフリカアメリカンの間では、奴隷制度は、人間の歴史の中で最悪の出来事として覚えておかなければならない。
そしてそれはまだ、モリソンは、それらが認識を通じて達成することができる本当の「自由」だと議論することができる。-これらの行為が、誰かの先祖が起こしたよくないことだということで、人びとの教訓としてーそしてそれは、独立の力になったと。
わずかだが、同じ方法がある。植民地独立後を定義することができる多くの人々は、植民地のアイデンティティを通じて、彼ら自身を定義するための力を含んでいると考える。
彼らは、個人の自由と本当の独立の逆効果としてみる。

p.83
集合的で個人のしんりとして痛みを持つこれらの思い出であり、確かな距離は、同じ経験を分け合合ったいくつかの物語で見ることができるかもしれない:個人は、思い出とそうでないものは、ベロードによって記述だれたとして、荒廃した中に、自分の居場所を作ることはできない。
さらに、この奴隷制度、または心と体の植民地化は、小説に描かれ、このような父建的な時代に生きる女性に、二重に圧力を与える。
奴隷制度のシステムは、父権的な社会の一コマでもある。


9.西洋との出会い

p.88
(そんなに名作と言われている本でも、読者にその準備がなければ意味がない)
私は、グスタフ・フロベールが書いた小説である「感情教育」を何年か前にはじめて読んだ。
それは、1950年版の古本で、アラハバードの歩道で本を売るものから、20ルピーで買った。
本の背には最初の持ち主の名前と、ウイラーという書店名が、赤い判子で押してあるのをまだ読むことができたし、ページを開けると、薔薇の花びらの押し花が舞い落ちた。
私は、その作家の名声と、奥付にあるペンギンクラシックスという出版社の威信に惹かれてその本を買ったのであった。
しかし、当時この本は、他の多くの本と同様に喜びや感銘を与えはしなかった。また、私はそれを退屈で長いと感じた。

p.89
私はそれをなんとか読み終えたが、それはエネルギーを使い果たしたあとのマラソンランナーのように、意地を張ってのことだった。その後この本は、良心的に読みはしたが吸収されなかった他の本と同じく本棚の中で朽ちていた。
それから、ムスーリに向けて旅立つ直前に、私はエドムード・ウイルソンが、フロベールの政治性について書いたエッセイと偶然会った。

p.90
その文章では、「感情教育」について、あまりにも生き生きと語られていたので、私はこの小説の中で価値があるものをすべて見の逃さずにいようと思った。私は再びこの本を取り上げた。
当時私は、他の本を読み始めてはすぐにやめてしまっていたのだが、他の本とは違い、感情教育のページをパラパラめくるようなことはしなかった。私は何回かに分けて、それを最後まで読み通した。
すると、不思議なことに私は、今度は田舎者が、都会で魅惑的で幻想的な密会をする語りに、ほのかな満足が満ちていることに気づいた。それらは特に私に受け入れやすい事柄がいくつも書いてあった。

主人公のフレデリックの情熱的だがはっきりとしない憧れや、優柔普段さや目的のなさや、自己評価の低さは、自分を鏡に映しているようなものであった。そして、どこにいくあてもない情事や、だんだん衰え、いずれすべて消えてしまう芸術的・文学的な視点は、ゆっくりだが確実に迫ってくる地平線のように甘んじなければならない幾人かの人生のようだ。
何年かにも渡る長い描写を通して、私が必ず気づく哲学的な視点を提示していた。

p.91
そのページからは、ヒンズー教の宿命論がにじみ出るように思えた。つまり人生は成り行き任せのものであり、むなしいものであり、幻想的なものであるという感覚がそこから感じられたのである。そしてそれが、幅広い範囲の人間の経験を通してそんなにも説得力を持ってドラマ化されていることは、20歳でほとんど何も経験していない私にとって、この先の人生において身の毛のよだつ暗示をうるようなものであった。

p.92
インド人ライターの抜粋によると、パンカジュ・ミシュラは、植民地教育と正統派ヨーロッパ文学の議論を私たちの前に戻してくれた。
植民地化の範囲と方法への依存は、はじめに国の支配者が入り込み、そしていきわたり、国の文化は植民地化し、これらの文化のいくつか残った簡単なものまで消し去る。

私たちは、ザドルスミスのオンビューティの中にある最も正当な関係を簡潔に議論する。しかしながら、植民地の文化の中の同級生の中にある西の文化の冒頭は、前向きと後ろ向きの展望の両方をもちあわせているのかもしれない。
ついに複雑な3つの状況を通り、植民地から出るまたは残るという2つの文化の重要性を促進する。植民地とその関係で。
われわれは、パンカジが書いたこの抜粋が意味するものを感じ、インドを感じるーこの国は、1947年に革命がおこる前までずっと長いイギリスの植民地であった歴史をもっているーこのような例がある。
はじめに、インディアンのリーダーは、先住民族のテーマをみつけ、ヨーロッパ文学のなかにそれを据えようとしたのかもしれない、

p.93
多分、社会的な流れと人々やシステムの政治的な面、またはよりインドの文化自体がもつ記述などである。
キムやフォスターのように。
次に、インディアンはむしろ彼自身が、ヨーロッパが設定したものや彼らの文化の中に飛び込んでいき、そして、ヨーロッパの原理からでる関係や問題を、より理解しようとしている(この例のケースは、19世紀のフランスのライター、ガスタベが書いている)
最後に、管理者とリーダーはむしろお互いの文化の中心に立ち、いわば刺激を作っている。それは、テキストの世界的な真意をより狭くするかもしれないことと、人間性と個人的な上に全面的に影響を与える、相互的な関係のない問題である。むしろ、特に地方の関係は、よくわかった。
これら3つの方法のそれぞれは、お互いに両立しうる関係であるけれども、植民者と植民地にされた場所の間の力のバランスに関係がある。

10. 魅惑の故郷

p.99
(記憶にあった)インドのほうが、より大きな打撃だった。それは、属国だった。そこは、19世紀に我々の祖父が極貧から逃げ出さねばならなかった場所でもあった。
2つのインドは別々だった。独立運動で有名なインドは、誉れ高き名を持っていた。もう一方の個人的なインドは、かなり奥深くに隠れていた。記憶が薄れると、それは消えてしまうのであった。
我々が読むことができるインドではなかった。それは、キプリングに描かれているのインドではなく、またフォスターのものでもなく、サマーセットのものでもない。そしてそれは、ネイルやタゴールのかっこいいインドからも離れている。

p.100
プレムチャンドというインドの作家はいるにはいたし、彼がヒンディー語やとウルドゥ語で書いた物語は、我々にとってインドの過去を本物らしく思わせるものであったはずだった。
しかし我々は、彼について知らなかった。なぜなら我々は彼の作品をそのような形で読んでいなかったのである。

しかるべき時が来た時に私が言ったのは、この「個人的なインドへ」であり、独立後に偉大な名を持つインドではなかった。
私は、不安でいっぱいだった。しかし私がそこで見た、全てが見捨てられた状態というのは、私が心構えとして予想していたものをはるかに凌ぐものであった。
私が知っているほかの国で、これほど多層的に惨めさが重なっている国はなかったし、これほど混雑した国は他にはなかった。
私は世界のほかの場所から隔絶されて、不思議な大災害が起こった大陸にいるような感じがした。にも関わらず、私のとって圧倒的なものとして感じられること、こんなにも全景化されていることは、私が知っている今日の文学作品の英語の文学作品にはなかった。

p.101
キープリングの作品では、インドの飢饉がイギリス人の恋愛模様の作品になっていた。しかし、イギリスのものでもインドのものでも、インドの並外れた窮乏については言及されるとしても、まるで背景として読まれるもののように扱われていた。
そしていつもながら、インドの窮乏の中に、何か特別な精神的な要素が見出される人がいるのだった。



P.102
多くの人々の間では、国家を構成するものはなにかという疑問、現在の文化または民族文化、そしてこれらの中間の3点の間で、深いコンプレックスを感じながら個人的に反応する。
この章で取り上げるのは、国家と個人とコミュニティの中から選んだこれらのいくつかの問題を取り上げ、社会の周縁の問題をさぐる。
彼のインドの議論の中について、ネイプルは、二重になった彼の祖先の自国経験を描写し、公共と個人的なレベルの両方において、機能をもつという。
公共的なインドは、独立国家としてのインドであり、1947年の独立を超えて、騒然とした植民地以降の文化からなる国である。ガンジーのシステムはは20世紀にの世界に激震をもたらした。
しかし、それは部分的であり、しばしばこの国の悲惨な様相であった。個人的な苦境とコミュニティの苦痛は、彼にさらにはっきりとした影響を与え、歴史や文学では十分に描写されていないと感じる。

p.103
ネイポールの、神話と物語から部分的にインドの軸を扱ったこの「個別」は、彼が若い頃のイメージを燃え立たせる国に戻りたいという不安定な経験からくるものであるが、大多数のインド人の匿名性の中に横たわる彼の主人公が、インドそのものの不公平なしに持続されなければならないことあある。そしてそれは西を伴った歴史的な関係である。

このような世界的な展望からくる苦痛は、しばしばヨーロッパの正統な文学の背景として希に機能される。例えば管理者が、キープリングの物語のなかにあるように、インドの飢饉の時にお互いに顔を合わせことなく支え合う提案は、より表面的である。
そかし、ネイプルの感情と苦痛も同じであるかもしれない。一部では、彼は文化を超えた遺産だとなぞられた。
人生の大部分をイギリス人として過ごしたトリニディアンは、アイデンティティが変わることとセンスを失う間を表し、それは時々植民地独立後の作家が感じる文化交錯だとみえる。

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Mikami Kako

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