第1章 人間学と人類学

1、アンスロポロジー

●人間学の呼称
日本語の人間学という呼称は、英語のアンスロポロジー(anthropology)にあたる会う米語の訳語である。

●人間学の発端
1501年マグヌス・フントの「人間の尊厳についてのアントゥロポロギウム」に端を発する。ここで人間学と名づけられた学問の内容は、人体に関しての解剖と生理学に当たるものであった。
人間学はまずは人間の身体を対称にする学問であり、感覚的に検証しうる限りでの実証的な学問であった。

16世紀に誕生したこの学問は、やがて人間の身体のみならず、魂や心といった精神の働きを含むようになる。
初めて心理学の名を書物に残したのはゴクレニクスであるが、その弟子カスマンが「人間の教説としての人間学的心理学」という本を出している。このカスマンの語るところによると、「人間学の2つの部分は心理学と生体学である」と述べている。

2、人類学

●二つの人間学
16世紀~17世紀にかけての心理学は、今日の心理学とは違って、古代ギリシャのアリストテレス「霊魂論」以来の哲学の伝統と枠の中で行われる心の働きの解明であった。

近代の学問として誕生した人間学は、一方では哲学的な方法を用いて目に見えない心の働きを探求する心理学と、他方で実証的な方法を用いて目に見える体の動きを分析する解剖学との、方法を異とした二つの学問の合体だったのである。
今日ではこれを哲学的人間学・科学的人間学と言う

●実証科学の人間学
日本ではアンスロポロジーを人類学とも約している。客観的に観察される人類についての形質や文化を理解しようとする実証科学的なアンスロポロジーは、これを「人類学」と呼ぶのが日本では一般的である。

人類学はおもに「文化人類学」と「自然人類学」の二分野からなる。
文化人類学は、世界の人類の精神の諸成果の特質を取り上げて比較検討を行い、自然人類学は、世界の人類の身体の諸形質の特徴を捉えて比較検討を行う。このような点より人類学は人間の精神と身体の両面から総合的に捉えて考察を加えていることになる。

人類学といわれる学問は、文化と自然の両面の人間のあり方を、あるいは精神と身体の両面にあたる人間のあり方を、検証可能な事実に即して解明する、実証科学の人間学なのである。

3、総合的全人の人間学

●哲学の方法
・包括的かつ根源的に問うこと
・思考を巡らし得心のいく論理で答えを出していくこと

哲学的思考には、即物的具体的な対象把握ではなく、観念的抽象的な対象理解が要求される。
哲学における理論の正当性は、言葉によって繰り広げられる立場に破綻がないことが、当該の理論の正当性を裏付ける。そこで哲学では、思考の論理に倫理学を学ぶことが必要とされる。言葉を有効に用いる修辞上の技法も説得性を高める上で哲学の武器になることが多い。

●総合的全人
・カント・・・人間の能力を、認識能力のみに重点をおいて理解するのではなく、感情能力と欲求能力も加えて、三つの機能と共に検討しながらそれらを「組織化して捉えた人間についての知識の学」が人間学だ。
・ディエルタイ・・・生きた人間を説明するには「色々な力を蓄えた全体的人間を捉えなければならない」「意欲、感情、表彰のそれぞれに現れる実際の生活の進行は、全体的人間の本性のさまざまな側面にほかならない」

人間学は、人間を総合的全人の観点から扱い、人間を多機能の複合体と受け取る。そして、哲学の見地からこの総合的全人を取り上げるのが、哲学的人間学である。


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第2章 哲学における人間観

1、人間の自己理解

●自然哲学
タレス・・世界の原理を水とし、万部つの根源は水だと述べた(哲学のはじまり)
ピュタゴラス・・世界は数という秩序を原理とする
ヘラクレイトス・・ひとつの理性法則にしたがって万物は流転する
パルメニデス・・生成変化する現象の世界は本物ではなく、不生不滅にして単一不動の存在が世界の本質である
エンベドクレス・・地、水、火、風の四つの根が究極の実在であり、万物はこの四元素の離合集散によって生成し消滅する

●人間哲学の出現
紀元前5Cのギリシアでは、人間の営みについて知識を求める風潮が生まれた。そこで登場したのがソフィストと呼ばれる人間地知の教師たちである。
人間にとって関心を寄せるべき世界は、自然的世界よりは人間的世界であると考えられるようになった。

プロタゴラス・・万物の尺度は人間である

●ソクラテス(ソフィストの一人・・異端者)
自分がソフィストと言えるのだろうか・・と自分に問いをしかけた。自分を知者と呼んでいたのでは、もはやその知を吟味する手立てを持たないと考えたのである。
このような人間による人間自身への反省をソクラテスは魂への配慮と考え、自然や社会などの諸世界についての知識も大切であるが、知識を求めている当の人間への自己検討を最重視した。

このような自己理解への道を、ソクラテスはフィロソフォス(知を愛求するものの意)と呼び、ここにフィロソフィア(哲学)の呼称が生まれた。

2、主知主義

●古代と中世の哲学
プラトン・・ソクラテスがよく生きるための徳は正しい知の取得にあると述べた考えを踏まえて、肉体の条件に拘束された感覚的な知識は必ずとも正しい知識とは言えず、これを超えた理性的な認識こそ、人間によってたつ真理の根拠であると言う考えにいたった。そして、肉体や感覚に捕らわれない知的理性を人間の最も大切な本質的な働きとみなす、このプラトンの「主知主義」が、その後の哲学を支配する基本的な枠組みとなった。
アリストテレス・・人間の諸活動について語る「ニコマコス倫理学」の中で、知的理性に従う観想的生活を人間の最高位の態度と考え、観想活動体としての理性を神的なものと唱えている。
アウグスティヌス・・人間を神によって作られた神の似姿とみなし、人間は神の真理の光に照らされるとき、自己の内なる神を知る理性が働いて、学問的な永遠の真理を理解できる
アンセルムス・・知的理性と神を知る信仰が一致する「知らんがためにわれ信ず」
・トマス・・信仰の内容に理性を超える部分があるにせよ、原則的には、人間の知的理性と信仰はともに神から与えられたもので、相互に矛盾するわけでなく、あい補うものである
オッカム・・検証できる個別の実在についての真理が知的理性の対象になるのであり、神の啓示を信じることが前提になる信仰上の問題は哲学から切り離されるべきである

このように、中世の知性論は信仰と一致知る知性という立場から、信仰とは区別される立場を取り、主知主義をいっそう強めることになった。

●近代哲学の開始
ベーコン・・「知は力なり」人間の知性の働きを最重視するとともに、知性の働きによって形成される世界についての学問的知識が、人間の生活を向上させる
デカルト(近代哲学の父)・・「我思考す、ゆえにわれあり」知的に思考する理性に人間存在の根拠を置き、神の存在や物質的世界の存在を、論証的に推論していく知性によって基礎付けた。
ポップズ・・人間の感覚器官に及ぼされた外的物質の運動量に応じる内的反作用の運動を知識と考え、運動量の蓄積が記号化して理性的判断を促す
スピノザ・・人間の心に生じる知識の論理的な規則や推論の結合関係は、自然そのもののである神の精神的変容にほかならず、神の知性の秩序の表れだ。

●近代の啓蒙主義哲学
「啓蒙主義」とは、全ての人々が自然や諸社会についての正しい知識を持つならば、成長し安定した共同体を作ることが出来るという思想である。
ロック・・「経験論」知識の源泉を外界の経験に求め、観念は後天的に形成される。感覚による経験知は外界の諸性質についての知識であり、反省による経験知は表象や懐疑の推理などの心の働きそのものの経験の蓄積である。心は知性と呼ばれる理解力を身につけ、複合観念という高度な知識を作り出すことになる。
ライプニッツ・・「単子論」世界を構成する働きの単位として単子の存在を主張。単子の内容である働きとは、表象という知的な力であり、単子とはそれぞれが別様に世界を表現する知的な働きのこと

このようにして、ソクラテスの愛知の学に始まった主知主義は、西洋思想の流れの中に連綿と受け継がれ、知性を尊ぶ近代啓蒙思想の徹底した合理主義までに及んでいる。

第3章 科学と技術の時代

1科学の時代

■主知主義と科学

科学とは、筋道を立てて構成された実証可能な知の体系である。
近代哲学の主知主義の始祖ともいうべきベーコンとデカルトは、哲学者であると同時に、今日で言う科学者でもあった。
ベーコン・・・熱のあるなしの諸事例を実際に比較して、熱についての科学的な説明を通して、そのことを通じて帰納法と呼ばれる近代実証科学の基本的な方法を確立した。
デカルト・・・解析幾何学の創案者。光の屈折と法則を発して光化学の創始者となり、気象学や医学について仕事を残す。

(帰納法とは有限の実験を行い、完璧でなくてもみなが「確からしい」という命題を導き出す証明法)

■自然科学の世紀(17C)
ガリレオ・・・イタリアの物理学者。落体の法則、振り子の等時性、望遠鏡による天体観測を行い、実験に基づく数学的な運動論を展開
ハーヴィー・・・イギリスの生理学者。血液の体循環説
ボイル・・・イギリスの自然科学者。期待の流体静力学の発見
ニュートン・・・万有引力の発見、微積分の原理の解明、光の本性の探求、反射望遠鏡の発明
ケプラー・・・惑星運動の法則の発見
ネーピア・・・対数表の作成
スネル・・・光の屈折の法則を発見
パスカル・・・真空管の発見
レーマー・・・光の速度の計算
ホイヘンス・・・光の波動説

■社会科学の世紀(18C。自然へと向いていた17Cの知性の眼が、
人間へと向け代えられ、人間の営む社会について科学的な検討が加えられた=啓蒙主義時代)
モンテスキュー・・・「法の精神」は政体論を含む法学の書。
ルソー・・・「社会契約論」
ペイン・・・コモン・センス
ベンサム・・・道徳と立法の諸原理序説
ケネー・・・重農主義
スチュアート・・・経済学原理(重商主義)
スミス・・・国富論
マルサス・・・人口論

2、科学と技術

■有用な技術
知は力であると考えるベーコンは、別言で「自然はこれに服従することによって征服される」とも言う。自然に服従するとは自然の秩序にしたがって自然を観察することである。自然について知である科学は、自然を力として活用する技術を生み出す。

より住みよい社会を作るために、三権分立という政治組織を導入したり、自由主義経済の浸透する組織を考案したりと、社会科学の知識は役立ってきた。

自然のみならず社会に関しても、知は力として有用に機能してきたといえよう。

■利点と弊害
科学の進歩のおかげで、人々は無駄を省いて効率よく暮らすことが出来るようになってきた。
知性による技術と組織の合理化は、有る意味人間を余計な束縛から解放し、人間の可能性を拡張してくれるという利点を有する。
しかし反面人間は、あらゆる面で企画にはまった生き方が強要されるようになる。

また、技術開発を進め、目先の有用性を追うばかりに、大気汚染や土壌汚染、地球の温暖化や砂漠化など深刻な公害や環境汚染が生じ、二院現の存在そのものが脅かされる結果に立ち入っている。

社会組織の面においても、情報のマス・マディア化が進み、没個性的な気分が広がり、自主性を発揮する余地が失われて、リースマンの説く「他人指向型人間」や「集団帰属的な組織人」の登場が現代の特徴となる。

■事実と価値
哲学においては存在する事実を正確に把握することと、その事実が権利を持つべきであると価値付けることはレベルの違う話である。
すなわち、科学における判断はあくまでも事実の解明に終始する、没価値性でなければならず、善悪や美醜など主観的な価値判断を加えてはならない。

科学が基礎を置く知的理性とは、万人に共通する基準を有し、理知で有る限り全ての人の得心を前提にしたものである。科学者は、この知の普遍性を準拠して、事実判断のみに忠実であらなければならない。

科学と技術が進歩を遂げている間は、その背後にある黒い影は見えなかったのだが、知に替えて信仰や美醜などに関わる働きに、かえって人間らしさが認められるようになった。知性や科学の特権を許さず、これを批判的に検討する道が開かれてきた。

■科学技術批判の視点
科学技術の利点を享受するためには、反面に生ずる弊害をしっかりと見つめ、これを除去することに勤めなければならない。そのために、科学万能主義を排し、科学や知性の特権を相対化することが求められる。

そうすれば科学は、意思による最良が問われる倫理や、感情の紡ぎだす芸術や、信仰の生み出す場としての宗教などに並ぶ文化の一つとなり、特権性は剥奪されて、そのネガティヴな側面をも価値判断の俎上に載せることが出来るようになる。


第4章 カントの人間学(1)

1、知の検討

●感性論
「第一の主著「純粋理性批判」(三部門立て)
まず第一は感覚的経験的に得られる知識の仕組み論

人間の知的理性は、外界の物自体が我々の「感性」(我々が対象から触発される仕方を介して表象を受ける能力)を刺激するという経験から知識形成は始まる。
感性が手に入れる表象知は「直感」と呼ばれる。

その際感性は、実は先天的に備わっている直感形式(空間と時間)によって対象を整理して直感に仕立てることである。
カントにとって時間と空間は、外界に存在するのではなく、対象を認知する際の感性の有する整理の仕方のことである。

この「直感」は十分な知識とはいえない。整理して概念的な知識へと構成する働きが必要である。その手順を行う知的な作用が「悟性」である。

●悟性論
悟性とは「感覚的直感の対象を思考する能力」である。悟性は内から働いて、雑多な印象に過ぎない直感をもとに合理的な知識を生み出す自発性の機能である。

カテゴリーに12通りの判断の形式をチャンネルとして整理され、概念と呼ばれる高次の知識へと形成されていく。
<量のカテゴリー>
1、単純性
2、数多性
3、総体性
<質のカテゴリー>
4、実在性
5、否定性
6、制限性
<関係のカテゴリー>
7、実体性
8、因果性
9、相互性
<様相のカテゴリー>
10、可能性
11、現存性
12、必然性

●理念論
知的理性は、感性・悟性とともに尽きることはない。
理性には、感性や悟性のほかに、そうした機能自体を反省し、批判的に検討する働きが有る。

理念はひとつのものをであることを絶対肯定しないと始まらないような場合の存在のことである。
・心(霊魂)
・世界(宇宙)
・神(根源的存在者)

2、意と情の検討

●意思としての理性
心と世界と神は、知的な認識の対象ではなく、人間の行為の規範を与えるものである。カントは知的な理論理性の限界を指摘し、これに対する道徳的な実践理性の優位を説いた。

人間に具体的な行為を起こさせるのは意思である。知識を持っていても生活の原理となるのは行為の際に働く意思なのである。この意思を理性的な働きとして検討するのが、第二の主著「実践的理性批判」であった。

この著の中でカントは、無条件に成り立つ道徳法則への意識を「理性の事実」と呼んだ。カントは無条件の「善い意思」の活動の場を成立させる根拠として
・不死なる心の存在
・自由な世界の存在
・最高善の実現を可能にする神の存在
を認めた。

●感情としての理性
第三の主著「判断力批判」
判断力とは「特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力」である。カントはこの能力を
・美的判断力・・美的判断力は美しさと崇高さを感得する感情
・目的論的判断力・・有機体の統一原理を感得する感情
に分けた。

美と崇高は我々に美的快感をもたらす。自然を有機体とみなす働きも、理屈を超えた感情である。この二つは単なる満足感などではなく、調和をもたらす快である。

カントはこの働きを「文化」と呼んだ。文化とは歴史における人間の精神の開発であり、芸術や学問の教化である。

3、生きる理性

●知的理性の限界
カントは理性を主に知的な働きとして理解してきた近代哲学の主知主義を超えて、理性に意や情などの幅広い機能を認め、それぞれの働きに理性自身が批判検討を行うと言う形で哲学を展開した。
カントが一番力説するポイントは、理論理性の限界である。

神ならぬ人間の身で理論的に知りうることには限界がある。ところが従来の哲学は心の存在を現象のように扱ったり、世界を対象化したり、神について合理的な証明を試みたりした。カントは従来の哲学のこうした知性の越権を指摘した。
心や世界や神は、知の手の及ばないもの、知によっては想定されるだけの理念であることを述べた。

知的理性の限界を画定することにより、知とは別の精神機能を救い上げて、総合的全人の人間を見届けようとするのが、カントの哲学なのである。

●信仰に場をあける
現実を生きている人間は、決して真を求める知性だけを働かせて生きているわけではない。善を求める理性的な意思や、美を求める理性的な感情や、聖を求める理性的な信仰など、さまざまな理性を働かせて生きているのである。

したがって、カントの言う信仰とは、理論や科学で説明のつかない領域において働く精神の作用のことである。

さらにカントは信仰について「単なる理性の限界内の宗教」という著書でも語る。神の側からの啓示をそのまま信じる啓示信仰ではなく、人間の理性の範囲内で不可欠のものとして要請される神を考えている。
したがってカントの考える宗教的理性は道徳的理性に重なるものである。

理性的に世界を生きる人間は、知性の枠を超えた意欲や情緒や信念などにおいても理性的な分別を働かせ、生きるために諸機能を総合的に関連づけていく全人なのである。

第5章 カントの人間学(2)

1,人間とは何か

●3つの問い
カントの「実用的見地における人間学」の中の3つの問い
1)私は何を知りうるか・・・思弁的(形而上学)
2)私は何をなすべきか・・・実践的(道徳)
3)私は何を望んでよいか・・・実践的にして理論的な問い(宗教)

●第四の問い
4)人間とは何か・・・人間学
学問的理知の点検(知)、道徳的意志の吟味(情)、芸術的宗教感情の検討(意)、これらを総合する観点を持つことが大事なのであって、これが人間学である。

●実用的見地における人間学
カントの場合、人間を根本から語るというよりは、世間を渡る上で役に立つ知恵という度合いが強い。

2、三つの機能と人間の諸性格

単に世間を渡る上で役に立つというのではなく、世界市民という理想的な人間のあり方を実現する上で役に立つ世間知が「実用的見地における人間学」なのである。

カントのいう世界市民とは、全世界が自分のためにあるというのではなく、自己をひたすら世界市民としてみなして行動するという考え方である。
悪から善へと向かう、絶えざる進歩のもとに、困難を乗り越えて向上に努める理想的存在者の類として人類の目指す社会が、世界市民の有機体だ。

●認識能力・快適能力・欲求能力
「実用的見地における人間学」の内容
<第一部>
1)認識能力(知)・・・構想力や判断力にまつわる諸問題や精神病の分析、機知や天才について
2)快適能力(情)
・感官にとっての快(満足)と不快
賭け事、観劇、読書、労働、喫煙、退屈と気晴らしについての論述
・構想力の快(趣味)・・真の趣味とは、芸術趣味である。
3)欲求能力(意)・・・道徳的観点での欲求は善を求める意思である。実際の社交の場では、節度ある逸楽という徳を求める意欲と考えられる。

●人間の諸性格
1)個人の性格・・快活な多血質、慎重な陰鬱質、熱血の胆汁質、冷淡な粘液質
2)男女の性格
3)民族の性格
4)人類の性格・・共和制の国家を実現し、その国家間の国際的な連盟を結んで、世界市民の社会を地球規模において打ち立てること

●人間の自己修練
カントにとって、人間は理性的であることの出来る動物として、自己を理性的動物たらしめる課題を負った存在である。

カントにおける人間学は、知識や学問の場合でのみならず、倫理や道徳の局面にあっても、また芸術や宗教の側面においても、いかなる面でも理性的であることによって、人間はバランスのとれた全人を目指すことが出来るということを述べている。

人類は、全人の理念のこの具体化を課題に自己修練を積み重ねていくとき、「進歩していく世界市民の有機体」であることが出来る。





構想力によっての快(趣味)に


第6章 シェリングの人間学的図式

1、フィヒテ批判

●フィヒテの自我哲学
カントは知性昨日として働く理性の限界と、園先に意思機能や感情機能として働く場があることを説いた。だが、このように別々の異なる働きを理性の中に認めるのはおかしいと考えたのがフィヒテである。
フィヒテはカントを批判することを通して「自我哲学」を展開した。
自我の働きゆえに生じてくる自我ならざるものを非我とよんだ。
理性の働きとは、非我を合理性化し、自我化しようとする働きなのである。

●有機体説の自然観
このフィヒテの自我哲学は、自我にこだわるあまり、自然世界を非我としてネイティヴに捉えるばかりであった。
これに対しシェリングは、フィヒテに軽く見られていた自然世界に注目する。
「有機体は自己自身を生み出し、自己自身から生まれてくる」とシェリングは言う。これを「分極性」(磁石がs極とn極があってはじめて磁石であるというようなもの)と述べた。

従来の哲学は、この分極のあり方を、精神と自然・意識と対象・主観と客観・自我と非我などと区別していた。しかし、シェリングによれば、精神と自然は本来同一のものであり、同一世界の単なる二極に過ぎないという。このシェリングの哲学は「同一哲学」と呼ばれる。

●芸術哲学
芸術は美的直感によって理解される。シェリングは、哲学は知的直感による洞察ゆえに、知という「人間の一断片」を高めるに過ぎないが、「芸術は全体的人間そのものを高みへともたらす」という。
知よりは情や意に傾いた芸術を評価することにより、近代主知主義への切りくずしが図られている。

2、人間的図式
●自由論
人間は欲望の意思と明澄な悟性との統合と分裂の中におかれており、悟性的な普遍意思を離れて自己のみの存在をはかる我意に走る自由を持った。そしてこの「我意」の高揚が悪なのである。

●人間学
人間の一切に精神的なあり方を成立させる要素
・意思・・人間の本来の精神的な実体であり、一切の根拠であり、根源的な素材産出者、人間構成の第一のもの、存在の原因
・悟性・・創造はしないが規制をし限界付けをするものであり、無限にして抑制のない意思に基準を与えるもの。
精神・・存在すべき本来の目的であり、意思が悟性によってその中へと高まることになる目的、意思がそこへと自己を解放して輝かしいものに変わる目的
「全精神存在を構成するこの三つの要素が相関的であるがゆえに、これをその本性にかなった正しい関係で統一することが、人間の課題なのである」

●文化
近代主知主義のもたらす科学のみが人間性を発揮した人間らしい文化であるというわけではなく、芸術や宗教という文化も、それぞれに人間らしさが十全に発揮されたものなのである。

●主意主義(シェリングの意思を強調した哲学)
主意主義は確かに近代の主知主義を超えるものであり、その意味で近代批判になりうるのだが、人間を考えていながらその諸機能のひとつ(意思)だけを特権化して、そこに人間の実態を認めるというのであれば、構造上は主知主義と変わるところがない。

第7章 フォイエルバッハによる神学の人間学化

1、宗教批判

●ヘーゲル左派
近代哲学を主導してきた主知主義は、ドイツ観念論の完成者のヘーゲルに哲学においてその集大成を見る。ヘーゲルは、人間の理想的なありかたを絶対精神とよび、この精神を自ら低い段階から高次の段階へと高めながら、本当の自己を実現するプロセスが、さまざまな形で展開されている世界なのだと考えた。

1831年のヘーゲルの死去を機に、ヘーゲル学派は、ヘーゲルの学説を守るヘーゲル右派、歴史研究に深入りするヘーゲル中央派、ヘーゲル哲学を批判するヘーゲル左派に分かれた。急進的なヘーゲル左派の運動が、その後マルクス主義に結びついた。

ヘーゲル左派はキリスト教そのものを批判する立場を取った。
・シュトラウス・・新約聖書の福音書は民衆の精神が作り出した神話である。キリストは人類の精神の理念の実現化の表現にほかなならない。
・バウワー・・福音書は神話であるのではなく、福音書記者達によって意図的に作られた
このような考えの中にフォイエルバッハがいる。

●神学の人間学化
フォイエルバッハの宗教批判は「神学の秘密は人間学である」ということ、すなわちキリスト教神学を人間学として読み解くことであった。

神学を否定しつつこれを人間学として肯定しようとするフォイエルバッハにとって、神とは「人間の絶対的本質」であり、「神とはあらわにされた人間の内面」にほかならない。

2、人間学

●全体的人間
普遍化された類としての人間の絶対的本質とはなにか。フォイエルバッハはそれを、理性(あるいは悟性・知性・認識など)と、意思(意欲・性格・道徳力)と愛(心情・感情・共感・感性)などの、統一的事態とみなす。

●三位一体
人間は、知(理性)・情(愛)・意(意思)の全体性である。三位一体とは、キリスト教の革新的な教義=キリスト教の本質である。
超越神でありながら同時に人格神でもあるキリスト教の神は、人間とは異質の絶対者としてひとつの実体でありつつ、同時に父なる神(創造者)と子なる神(救済者)と聖霊なる神(完成者)とのみっちの位格において人間に対する具体的な人格形成の働きをする神である。

父なる神・・知性ないし悟性
子なる神・・愛ないし感情
聖霊・・フォイエルバッハは明確に論じていない

3、類の本質

●身体と愛
知性を働かせるには身体の感覚器官が必要である。身体が動かなければ働きようがない。愛の感情はことさら身体を具えた現実の人間同士の関わりに基本が有るとフォイエルバッハは言う。

知・情・意の複合は、心の働きにとどまらず、身体の要素も取り込んだ総合なのであり、それも肉体的な愛の関係のゆえにというのではなくて、ことに他人のために身を捨てるような愛において、そのことが最もよく表現される。

●わたしとあなたの共同体
人間が思考し意欲するだけの存在であるなら、宥和(ゆうわ
を欠いた個別者間の闘争があるばかりである。そこには真の普遍は存在しない。「孤独は有限性と制約であり、共同性こそが自由と無限性である」

わたしとあなたとの親しい関係としての共同体は、それぞれに個体でありながら、愛ゆえに共同体としての類を形成しているのである。これはキリスト教の神が個と類の統一と考えられているのと同じである。

人間が人間にとって神であると考えるフォイエルバッハにとって、「神は愛なり」と言うキリスト教の最高命題は、逆に「愛は神なり、すなわち、愛こそ人間の絶対的本質なり」と言われるときにのみ、正しく真理を語っていることになる。

したがって、フォイエルバッハの主情主義も、シェリングの場合と同じように、一つの機能に人間の本質を求める本質主義が見られる。

第8章 ディルタイの生の哲学

1、精神哲学の基礎付け

●自然科学と人文社会科学
西欧の17世紀は自然科学の時代であった。18世紀は17世紀に生育した科学的な知見の獲得の方法を、自然のみならず、人間の形成する社会に適用して、近代科学としての社会科学を整えてきた。

しかし、自然のありようを説明しようとする科学と、人間の作り出したものを理解する科学とが同じように科学と呼ばれるからといって、安易に同じ方法と考えられたままでよいのかという反省が、19世紀の後半から生じてきた。
歴史科学や文化科学について、自然科学とは違った理解のしかたがあることの検討が行われる。

自然科学とは別に、歴史科学や文化科学に独自の対象や方法があることを主張し始めた人々
・リッカート
・ヴィンデルバント・・自然科学は法則を立てる学問であり、歴史科学は個性を際立たせる学問である
彼らは新カント派と呼ばれた。自然科学の基礎付けにカントの認識論を利用すると共に、自然科学とは異なった人文社会科学の学問的基礎付けに乗り出した。
その中にディルタイがいる。

●全人の人間学
ディルタイもこれまでの哲学が人間の本性をもっぱら知的な機能にのみ限定してきたことに批判の目を向けてきた。

ディルタイは、社会や文化の歴史を作り出していく力動的な人間の精神に複合的な働きを認め、これを生きる精神を考えて、そこようなせ威信を発現する人間のあり方を端的に「生」と呼ぶ。
人間は、知ることに尽きるわけではなく、むしろ生きることとしてこの世に存在する。文化や歴史は、人間が世界を生きることを通して生み出されていく。

そこでディルタイの哲学は「生の哲学」と呼ばれる。生きた人間と言うディルタイの「生」は、「いろいろな力を備えた全体的人間、すなわち、意欲し、感動し、表象する人間」である。
ディルタイの人間は総合的全人を扱う「人間学」である。

●構造連関
人間が生きるということは、知・情・意の諸機能の関係の下で成り立つ。この関係が生き生きと働いて生み出されていくものが歴史であり、文化であり、精神科学にとっての現実である。
生によるこのような関係をディルタイは「人間的生の構造連関」と名づける。

ディルタイは
・対象把握の系列としての知性
・価値規定の系列としての感情
・目的定率の系列としての意思
の3つをあげ、生をこの三者の構造連関と捉えるのである。
人間の生は、どこまで切り込んでみても、この構造連関を有している。

2、解釈学

●体験・表現・理解
ディルタイは、自然科学の学問対象の知り方と、精神科学の学問対象の知り方とは、明確に異なることを示した。

精神科学は、結局すべて人間自身による「自己省察」なのであり、そこでの知解は、対象を客観的に説明してわかると鋳物ではなく、いわばみずからの主体性を巻き込んだ体験がらみのわかり方なのである。それをディエルタイは「理解」という。
理解とは、生の体験が精神文化として表現されたものについての理解である。従って、体験・表現・理解の関連の上に精神科学の対象構成が成り立つ。

体験とは人間の生の体験、すなわち生きていることそのことであり、知・情・意の構造連関の体験である。
表現とは、この生の体験の客観化であり、歴史となって表出されるものである。
理解とは、同じ歴史を生きるものとして、生の客観態である歴史的なものを追体験しつつ了得することである。

この体験・表現・理解の連関の元に行われる精神科学の歴史理解、文化理解、人間理解が解釈学的な理解、すなわち「解釈」という理解なのだとディルタイは考えている。

●解釈
ディルタイは、人間が個人のでベルで自己省察する場合でも、常に他の人と比較することによって、初めて個性的なものの体験をなすことになる。他者を理解するとううことが、人間にとっては不可欠であることを告げる。

解釈学においては、部分と全体との間の解釈的循環としてすでにしられていたことである。作品を理解する際には、部分を読みこなさなければ、全体を理解できない。だが、全体がわかっていなければ、部分の正確な読みはおぼつかない。部分と全体の間には、部分がわかれば全体が理解できるし、全体がわかれば部分の理解がより進む、という循環がある。

3、世界観

●世界観
人間の生は、知・情・意の構造連関をなす。この構造連関の体験が特定の表現をとって客観化されるときに、各種の精神文化が始まる。
ディルタイは、この世界観を取り上げて
・宗教的世界観
・芸術的世界観
・哲学的世界観
に分けた。特に哲学的世界観は
・世界は自然の因果性に従う物理的現実のもとにあると考える自然主義
(唯物論・感覚論・実証主義)
・物理的因果性とは異なる自由な精神の世界を認める自由の観念論
(有神論・自由主義・人格主義)
・普遍的共感に基づいて世界に万物の普遍的調和を存することを認める客観的観念論(凡神論・神秘主義・美的宇宙観)
に分けた。

●歴史の現実
自由主義、自由の観念論、客観的観念論はいずれも生の体験の表現である以上、生の構造である理知的認識・意思的態度・感情的生活の三者のい結合を含んでいる。

園世界にも理知・意思・感情の働き愛が体験されてはいるが、特に理知の契機が強調されたものが自然主義であり、意思の態度が強調されると自由の観念論、そして感情の生活が強調されると客観的観念論になる。

歴史の現実は、文化の違いから来る憎みあいがあったり、制度の違いから生じる摩擦があったりするが、心を開いてかかるならば、人間がみな同じ構造連関のもとに生を営んでいることがりかいできるのであるから、世界観の類型を異にしていても、それらの類型はいずれも権利をもちうるのである。


第9章 シェーラーの哲学的人間学

1、哲学的人間学

●感情の価値論
人間学という名称を導入したのがカントであったことは前述したが、哲学的人間学の呼称をはじめて用いたのはシェーラーである。
シェーラーは、カント倫理学の形式主義を批判して、実質的な内容を有する倫理学を説くものである。シェーラーは、特に人間の感情の持つ価値志向性に注目しながら、快適価値・生命価値・精神価値・聖価値(人格価値)の序列を立て、聖価値を感得する愛の担い手としての人格を問う人格論を展開した。
感情や情動を重視し、他者との共感を求める愛に人格性の根拠を据えるシェーラーの態度は、近代主知主義の人間観を超えるものである。

●「哲学的人間学」出版予告
ところが、シェーラー自身は「哲学的人間学」という名づけた書物を公刊するには至らなかった。なぜなら単行本として出版した本の前書きに予告を残して不帰の人となったからである。
しかし、その前書きには「哲学的人間学」のいくつかの主要点が書かれていた。

2、有機体の系列

●心的諸力
シェーラーの人間学は、一方では人間を有機体の中に位置づけ、他方で生物一般とは異なる人間固有の本質を取り出そうとする点に特徴がある。
シェーラーはまず、生物は総じて「心的諸力」を持つという。植物でも動物でも生きているということは、自己運動・自己形成・自己分化・自己限定などに見られる広義の心を有するということにほかならない。
シェーラーの言う有機体への心的機能とは、感受衝迫・本能・連合的記憶・実際的知能・精神の五段階である。
感受衝迫は植物において、本能は動物において、連合的記憶・実際的知能は高等動物において、認められるものであり、精神は人間のみ固有のものであると説く。

●植物
感受衝迫・・心的な働きの再開の段階であり、意識も感覚も表象も欠いてはいるものの、無機質なものではない食物摂取や生殖充足などの衝撃的な力である
食物摂取と言っても、植物は自発的に食物を求めるわけではないし、生殖充足と言っても相手を積極的に選ぶわけではない。至って受動的ではあるが、このような感受性的な衝動が植物には認められる。

有機体の断層をとりあげるシェーラーの議論で大事なことは、下位の心的作用がすべて上位の有機体に備わっているということである。

●動物
第二の心的生命である本能は、動物によって表れる。生得的にして遺伝的であって、形態発生にあらかじめ組み込まれた身体構造と生理機能に密接した行動を促すものが本能である。

第三の連合的記憶は本能的行動が習慣化されたものである。生得的な反復衝動が、満足に対して効果を持つとわかるや、高等動物はその反復を積極的に行おうとする。その試行が成功を繰り返して定着したものが、連合的記憶である。

第四の実際的知能も第二の本能的態度から生じる。本能による行動が類型的であるのに対し、個体による選択が行われるに至った行動が、知能的態度である。これは意外性の体験である。新しい状況に立ち至った際に、有意味な行動を選び取ることが出来れば、それはもはや本能から切り放された実際的知能の獲得なのである。

3、人間

●精神
人間を人間たらしめるものとは、先述のように精神である。精神とは、知性・意欲・感情の総合的な全人を構成する働きのことである。そしてこれらの働きをシェーラは「人格」と名づける。
この人格的精神の決定的原理はなにか。シェーラーによればそれは世界解放性である。世界解放性とは、環境の束縛から解放されて自由であることである。植物や動物は環境に投入して生きざるを得ないが、人間は世界を対象とし、自由に働きかけることが出来ると説く。

●否を言いうる者
自由によって人間は様々な文化を創ってきた。文化を形成しえてきたことに、人間の最大の特徴がある。そして、この文化の創造は、現実を超えた理想を求めることから始まる。すまわち、現実への批判や拒絶から文化は始まる。

世界に対して自由であり、否を言いうる人間は、特定の自然的能力で自らを規定することも出来ないわけであるから、無の中へ落ち込むように思われることもある。人間の無性は、神の存在を呼び込むためのものであり、人格的精神たる人間は、聖なるものと交わる存在なのである。

●可塑性を備えた全人
全人とは、人間のあらゆる可塑性を内包した人間の理念と言う意味であるが、それは人間が「恐るべき可塑性を具えた存在」であることを前提としている。自由である人間は自由なゆえにたえず定義不可能な未定の存在である。可塑的な部分を新たな自己へと形成してゆく課題を負った未来への開かれた姿が人間なのである。この豊かな諸可能性を、理念的に表現したものがシェーラーの全人である。

全ての可能性を実現してしまっている絶対的な意味合いの全人は神をおいてほかにない。人間は色々な時代や様々な地域ごとの歴史的な制約を受けている「相対的な全人」でしかない。しかし、自らの可能性を最大限に用いて、これまでにない未来を開拓していく自由は充分ある。この自由な全人としての人間を語るのが、シェーラーの哲学的人間である。




第10章 キルケゴールの実存思想

1、人間学的分別

●生きるうえでの真理
「私に欠けている事は、私が何をすべきか、について自分と折り合いをつけることだ。何を知るべきかではないのだ・・・私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生きようと思い、また死のうとしようと思うイデーを見出すこと、これが肝要なのだ。いわゆる客観的真理を突き止めてみても、それが私に何の役に立つだろう」
(キルケゴールの慰霊碑に記された文の前後)

客観的真理をしることではなく、私が生きるために拠りるべき主体性の真理を求めることこそ人生の最大の課題だと語るこの言葉は、キルケゴールの思想形成の原点であると同時に、キルケゴールに始まる実存主義思想の出発点にもなった。
人間は万人共通の知る働きに尽きるものではなく、さまざまな機能を自分ながらに総合しながら人生を送ることに努めている。普遍化され抽象化されてしまった人間、すなわち本質としての人間ではなく、個々の人生を背負った具体的な人間、すなわち実存としての人間を掘り起こすことがキルケゴールの目指すところなのである。

●全体的人間
認識や試行の働きである知的理性には代表されてしまうことのない人間を見直すことで「ひとりの人間が感情と認識と意思を持っている」という支店から改めて人間を捉えなおす作業をし、この視点で捉えられる人間を、キルケゴールは全体的人間と呼ぶ。
キルケゴールにとっても、これまでに見てきた人間学を説く哲学者同様に、現実の人間を理解するには、諸機能の総合としての全人を捉えなければならないのであり、しかもキルケゴールにとって大切なことは、各個人が実存をかけて、そうした調和の取れた全人として生きる課題を有している。

2、関係存在

●関係としての自己
キルケゴールの人間学は、人間が知・情・意の総合であり、その総合を実現する課題を帯びている。というだけで済むわけではない。その総合を実現する仕方に、実は多様な局面があり、それぞれの局面ごとに抜きがたい問題があることを指摘している。

人間は、例えば無限性(空想的に自己を広げる働き)と有限性(世間の一員で済ます働き)の両極面の働きの中で生きている。その場合に、両面をかね揃えているというだけでは、消極的統一としての関係に過ぎず、自己とはいえない。両面の関係の均衡を図ろうとする行為(関係に関わる関係)という働きによって、はじめて自己は自己と言えるのだ。とキルケゴールは言う。

●不安
人間は自然的な状態においては、つい関係項のひとつに依拠して生きることになりやすい。自分の内に生きる根拠を持っていないと不安だからである。「不安は自由のめまいである」とキルケゴールは言う。
ある状況に際会してどのような関係を仕組み化は、各人の自由である。つまり関係存在と言うあり方は、実存存在の逆で、あり方の固定された実体を持たない自由のもとにある。

不安と言う現象は、人間が根源的に自由であることの証左である。この自己の無という未来に誠実に取り組むことを怠り、自由の可能性を閉ざして、日常的な惰性で日々を過ごしたり、刹那的な享楽に投入したり、あるいは大衆の判断に身をゆだねたり、客観的公共性に責任を押付けたりすることが、不安からの逃避として生じる。フロムはこの実態を自由からの逃走と呼んで、社会心理学的な分析を行ったが、キルケゴールはこれを、神に顔を向けることを回避するキリスト教の罪と結びつけて理解している。

●絶望
自由であると言うことは、特定の実体や本質から解放されていると言うことであるから、関係としての人間はまさに無根拠状態にある。そこでつい関係項のひとつに依拠することになるのだが、それでは調和の逸脱であり、関係の分裂に過ぎない。キルケゴールは、このような関係項の一方を欠く自己喪失の分裂状態を、絶望と名づけ、この絶望を「死に至る病」と呼ぶ。

<絶望の種類>
・意識の度の深まりに応じて、自分が絶望の状態にあることを意識さえしていない「無知の絶望」
・自分が絶望状態にあることを自覚しているので自己であろうとしない「弱さの絶望」
・絶望を絶えず意識していてあえてその絶望の自己であろうとする「強情の絶望」

●罪
キルケゴールはこの絶望を神の前に持ち出し、キリスト教の用語で罪と言い換える。無知も弱さも強情も、そのいずれもが絶望であるのは、全ての関係を措定した神と関わる関係を欠いて、自己の内部にだけ存在価値の根拠を求めるからである。それは神の前では罪にほかならない。罪とは、創造主の神を自分の存在の根拠とせずに、自分を自分の存在の根拠とするからである。

それでは、神を信じさえすれば絶望の罪から救済されるのかというと、これも単純ではない。神を信じたつもりが自己の諸契機のひとつにかんけいしているに過ぎないような、不幸のつまづきの落とし穴がある。
人間は神の前にただひとりで立つ人間として、神に対して責任を取ると言う仕方で、自由な主体性の形成に踏み出すと共に、真の人間らしさを実現することが出来る。これがキルケゴールの人間学の告げるメッセージである。

3、歴史性

●瞬間と反復
人間を制約する時間性と神の条件である永遠性とのふれあいが生じるとすれば、永遠とも時間ともつかない瞬間においてほかならないからである。聖書の告げる「時が満ちた」はこのことだ、とキルケゴールは言う。

時の充溢が瞬間でないとすれば、無から存在への移行と言う人間における生成の出来事は、そのつどごとに、存在から無へと引き戻される出来事でもある。可能性から生起した現実性は、また次の未来へと向かっては、新たな可能性である。つまりは、無から存在への移行という人間における出来事の生起は瞬間ごとの「反復」なのである。

●歴史
瞬間ごとの反復は、同一事態の反復であるが、その時々のひとりひとりの状況は全て異なるのであるから、そのつど一回限りの実存的な出来事でもある。
人間の生きる姿を、無から存在への移行と読んだが、この移行という言葉は本来は「歴史的自由の領域に帰属する」ものであり、歴史こそが、そのつど一回限りの出来事でありながら、神との関係を反復しつつ生起するべきものなのである。

したがってキルケゴールの語る歴史とは、瞬間ごとに神に顔を向けて生じている出来事の意であり、歴史形成にあずかる人間も、当然こうした歴史性を帯びて、他に代えがたい実存としての生き方をしているのである。

プロフィール

Mikami Kako

Author:Mikami Kako

おことわり

保育士・図書館司書に関しては、旧システムによるものなので、現在のもの科目編成や内容にずれがあります。放大についても閉講科目が含まれます

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