第1章 日本文化と神国・仏国思想

1文化の定義

●「文化」とは
知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣習などさまざまな分野を通じて社会の成員としての人類が獲得した知識や行動様式が、大きな意味での文化として社会に蓄積され、成員の行動様式や考え方を規制する、そのようなものを文化と定義する。

●歩き方の文化
「なんば歩き」・・・右手・右足を同時に出す歩き方
絵画資料によって日本人が昔は「なんば歩き」をしていたということが証明されたかといえば、そうではないが、現在の左右別に出して歩く方法は近代的軍隊の創設と共に西洋式の行進が軍隊の教練に取り入れられて依頼だという説も有る。
実際のところはわからないが、変化があるということは言葉が文化であるということと同じく歩き方も文化であるということが言える。

●日本文化研究(02)とこの講義の関係
(1)歴史とは、人間集団の過去における活動の総体であり、歴史学とは、人間集団の過去における活動の総体を資料に基づいて復元しようとしたものである。すなわち、現在に残された過去の人間活動の痕跡から遡って、そこ痕跡を残す原因となった、この人間活動の復元を目指すのが歴史学である。

(2)2つの問題
A,文字資料が歴史学で圧倒的に多用されるのは
・正確な年代比定が容易
・内容の限定が容易
・思考・音声などの物理的に困難なものの復元が容易
であるからである。
B,資料学・・・痕跡からその原因を復元するのであれば、原因と痕跡との間の相互関係があらかじめ予想されないといけないこと

(3)・人間の行動はその所属する家族・集団の有形の道具や地形、無形のしきたりや制度によって決定される面が多いが、それらは過去の人間の成果である
・それらのなかで営まれる人間活動は、その所属する家族や集団の中に蓄積されて、人間の行動を規定する環境を変化させていく。
・総じて、現在の我々の前に残されている過去の人間活動の痕跡は、過去のそれぞれの時点で残されていた「痕跡」に影響されながら行われた人間活動の痕跡が、現在に伝わったものである。

2中華思想と神国思想
●中華思想・・・中国を世界で最も文明・道徳の高い地域という意味で天下の中心であると言う考え方

中華思想が普通の自民族中心主義と異なるのは、実際に政治的な制度として存在したからである。中国皇帝(天子)は年号をかえる権限を持つ。革命などで新天子が生まれると年号が変わる。この年号に関しては日本も同じ制度を持つ。

●神国思想の成立
日本も当初は中華思想を持つ国であった(参考:倭王武の上表文)

●近代初期の神国思想
秀吉・家康が神国思想の持ち主であり、その内容が中世に成立した神木仏述の宗教論理に基づく。

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第2章 神国思想と天道思想

1、日本型中華意識というイメージ

アジアの東、日出る処
聖の君の現われまして
古き天地鎖せず霧を
大御光に隈なく払い・・


四大節(国民学校の児童が年四回行われる式典の時に歌われる歌)のひとつ「明治節の歌」
歌詞の内容は単純で、ようは明治天皇(聖の君)が出現し、古い社会を改革し、日本が世界に進出する機会を与えたという意味。
だが、こんな簡単な内容なのになぜこのような表現をしたのか。

「アジアの東、日出る処」
中国の王朝「隋の皇帝」の倭国伝に同じような表現がある
「古き天地鎖せず霧を払い」
江戸時代→明治維新→明治時代を表している
しかし「霧を払う」という表現は国境のない中国が徳の高い皇帝(天子)が人民を感化するときによく使われた表現である。
すなわち、中華思想を背景にした日本型中華思想が「明治節の歌」には背景にある。

2、日本型中華思想

●再び文化とは
文化の定義・・生物は所与の自然環境に適応することでしんかを遂げてきたのだが、人類は動物から進化する過程で、いわば人工的な環境として文化を創造し、文化を通じて環境に適応しようとしてきた

●中華思想と神国思想
中華思想は天道思想と結びついてきた。天道思想は普遍的な世界観であり、その天から指名された天子世界に優越するのが中華思想の一変種である日本型中華思想の神国思想である。天道思想は、太陽を「お天道様」と呼ぶなど、人々に深く浸透していった。

●「伴天連追放の文」にみる神国・仏国思想(徳川家康作成)
・第1段落・・・日本は神国・仏国である
・第2段落・・・日本は神国・仏国であるがゆえに正しい秩序が保たれている。キリスト教布教の目的は、この秩序を破壊し、日本を支配することに有る。ゆえにキリスト教は禁止されるべきだある
・第3段落・・・キリスト教布教禁止は、天命によりその位置に着いた為政者の義務である

●伴天連追放の文にみる天道思想
第3段落の冒頭で突然「天命」が出てくる。第1、第2段落で神国・仏国について述べたあとに唐突である。これはことさら説明を要しないほどに天道思想が普及していた証である。

3、神国思想と天道思想
文献では天道と天皇の関係が明記されているだけで(天皇は天の直系である)天道と天皇のどちらが上とも書いていない。

結論をいうなら、われわれの祖先は、中国古代に成立した天道思想を取り入れたが(徳の高いものがいつも上になるという革命思想)その革命理論は見て見ないふりをして神国思想(天皇が天の直系である)に作り変えた。内容的にも神国思想は中華思想の焼き直しである。

第3章 生活の中の神と仏

1、日本人の「無宗教」性

●「無宗教」の中身を考える
日本国民のほぼ七割が「自分は無宗教である」と答えるが、、その中の四分の三の人々が「宗教は大切だ」と考えている。すなわち彼らが宗教の必要性を否定しているのではなく、単に自分が特定の宗教の信者ではないことを言いたいだけではないか。

宗教の分類
「自然」・・・未開社会が自然発生的に生み出した宗教
「創唱」・・・特定の個人がその固有の宗教体験をもとに創唱し、その教えを布教と伝道によって、広く不特定多数の人々に拡大しようとする宗教

●「自然宗教」の肯定的評価
日本人の「無宗教性」は単に「創唱宗教」の否定にあるにすぎず、そのことはむしろ「自然宗教」の信奉者というポジティヴな方向で評価しなおすべきだ。

●なぜ「宗教は怖い」のか?
「創唱宗教」は日常の陣背の中に潜む根本的な矛盾とか人間存在の不条理を鋭く抉り出し、それと真正面から立ち向かうことを要求する。
だが、実際たいていの日本人は人生の喜びも悲しみもほどほどに受け入れ、流しているので、それを疑ったり否定することはかなわないという意識から「無宗教」を標榜しているのではないか。

そもそも宗教を怖いと思う感情は西洋社会やイスラムではない。カルト教団は怖いものだが、それはカルトだから怖いのであって、宗教が怖いのではない。

しかしより根本的な問題として、日本では一向一揆や天文法華の乱という宗教戦争の歴史が見逃せないように思う。その苛烈で生々しい宗教戦争の経験を潜り抜けて作られたのが近代幕末体制である。そこでの最大の目的は、かつての巨大な宗教勢力をいかに無力化し、体制にとって無害なものにするかであり、同時にまた体制にとって危険極まりない宗教から民衆を切り離し、彼らを体制順応的な宗教のみに親しませることであった。
このように日本人の無宗教性は過去の歴史とは無関係ではない。

2、日本人にとっての神と仏

●新野の盆踊り(重要無形民俗文化財)
8月14日から三日間、夜を徹して町の通りで繰り広げられる素朴でひなびたもの。だが最後の17日に「踊り神送り」という劇的なクライマックスを迎える。歌も踊りも急テンポで勢いを増し、精霊たちの灯篭の列を必死でとどめようとする。

親しい死者たちを少しでも長く自分たちの下にひきとどめておきたい・・・そんな切ない思いが見事に織り込まれていて、居合わせたものの心を打つ。

●去来する死者の霊と神仏
盆の迎え火に導かれてこの世の家族の元を訪れる祖霊は、一刻も早く故郷に着きたいときゅうりの馬に乗ってくる。一方送り火であの世に帰るときは少しでも遅くとナスの牛に乗っていく。こういう心憎い説明が日本では残っている。
日本の民俗信仰の中に死者と神や仏の間に根本的な区別はない。

●隣り合う死者と生者
このような盆や彼岸の行事を通じて、あるいは仏壇や位牌を通じて死者と生者は互いに繋がっていると考えられてきた。
キリスト教の神の国と人の国、仏教の浄土と娑婆世界のように異なったはるか遠い世界にいるのではない。

こういう意味において日本人には死者は怖いものではなく懐かしいものであった。先祖の霊は子孫のために安泰をあたえてくれるが、供養を怠ると生者に対して災いをもたらすとも言われている。民俗宗教をそのような「タタリ」の現象に注目して理解することも必要だ。

3、生活者の要請にこたえる神仏

●「速(ハヤ)」のつく名の神々
古事記や日本書紀に記される日本神話は高天原の神々の子孫が日本の統治者になったという天皇家の支配の正統性を強調している。

・ハヤアキツヒコの神、ハヤアキツヒメの神・・・海や川の河口を司る神
・ミカハヤヒの神、ヒヒハヤヒの神・・・イザナギがカグツチの神を斬り殺した時の刀の血から生まれたと言われる。
このことから神名に含まれる「速(ハヤ)」は激しい神の霊威が迅速に現れるさまを表現している。また別例からも「速(ハヤ)」は神の霊威の力の時間的な即効性を、とりわけ罪・穢れといったこの世のまがまがしい異物を彼方の世界に瞬時に移動させる力を示している。

●悟りと救済の簡略化/速成化
「日本の仏教の特性」
・高度な悟りよりも卑俗な現世利益を目的とする
・仏・菩薩の崇拝よりも先祖崇拝や祖師崇拝に熱心である

「簡略化の例」
・法然による浄土教・・高尚で難易度の高い観想念仏の方法が無用とされ、阿弥陀の名号を唱えるだけでよい
・親鸞、一遍・・法然の勧める念仏をより簡素化した
・日蓮・・「法華経」の経名だけを唱えることを徹底させる

・四国八十八箇所めぐり・・寺にミニ霊場めぐりが設置され、それを回ると88回ったことになる
・浅草の四万六千日・・この日に観音様におまいりすれば46000日のご利益がある

●「速」から「即」へ
般若思想とか空の論理といった高度の思弁哲学に源を持つ「即」の概念は、日本の仏教においてはその理想的な要素をほぼ完璧に喪失させた。いわゆる本覚論思考において常套句となっていった「煩悩即菩提」や「生死即涅槃」の表現は便利で安直な符牒にかわっていく。
高遠・難解な般若経の哲学は寺院によってアクロバティックな行事に使われる(経の文句を読むのではなく、手に掲げた教本を空中でぱらぱらと開閉する)→経典の中身より経典そのものが呪物として扱われる

空海が強調した「即身成仏」は、この身そのまま成仏であり悟りだということだが、空海がいまも方や三の奥の院に生前の姿のまま眠るというのは大衆の承認的結果に他ならない。
われわれの罪深い肉体はそのままで不壊の仏身であるという高度な宗教的逆説は「即身成仏」という用語の通俗化によって安易な肉欲の肯定を許すことにもなった。

第4章 国家権力と神仏信仰

1、政治と宗教の関係

●神と王の連続
現在のわれわれが知りうる最も初期の宗教は、王の神性に対する信仰である。私は、これが必ずしも最も始原の信仰であるというつもりはない。しかしながら、初期の記録を見てみると、人は神々とその地上での代理である王を崇拝していたように思える。
現在の知識では、神々への崇拝が王への崇拝に先行していると主張することはできない。多分どんな王も神なしでは、またどんな神も王なしでは、存在しなかったであろう
(人類学の古典的著作「王様」より

政治的権力と宗教的権威の双方を独占的に体現するものとして存在する個人は「神にして王」であり、かつまた「王にして神」であった。
(例)
・エジプトのファラオ=エジプトの神そのものの顕現
・イエス・キリスト=ユダヤの王
・天皇=現人神(あらひとかみ)

●日本とヨーロッパの相違
ヨーロッパは教皇権と皇帝権は相互に妥当の余地のない対立を含むものであった。だが、長い試行錯誤の末の妥協と調停の産物として、近代における政権分離の諸制度が考案されてきた。
日本は天皇の権威に由来する王法の観念と、釈尊の悟りの内容そのものである仏法とは、互いに助け合うべきものだと考えられてきた。いわゆる王法仏法両輪論、相以相即論である。

このように日本の政治と宗教は、ヨーロッパの場合をとは少なからず事情が異なり、とりたてて深刻な対立関係に陥ることはなかった。
(数少ない例外)
・一向一揆(本願寺戦争)
・天文法華の乱
・島原の乱
(重要な点)
これらの宗教勢力による班権力闘争が採取的には武力で制圧され、その後に出来上がった近世徳川政権は、こうした苦しい経験を教訓に宗教諸勢力の懐柔と体制化に数々の巧妙な政策を打ち出して、彼らを無害なアクセサリーと化すことに成功した事実である。

このように日本では宗教と政治が分離すべきだと考えられたことは一度もなかった。政教分離原則が事実上確立したのは、現行憲法施行後のたかが六十年間にすぎない。

2、いわゆる「国家神道」の成立

●近代日本の国家と宗教
神社は宗教にあらず、それゆえ国家による「神や祖先を敬うこと」の矯正は「信教の自由」(帝国憲法28条)と矛盾せず、との神道非宗教説が政府の正式見解だと説明されてきた。

しかし、GHQ神道指令(1945年)に神道と神社を国家から完全に切り離すように命令された。
島国であったため早くより単一国家を形成できた日本は固有の伝統とし、神道をキリスト教でも仏教でもない固有の宗教として強調していった。

●「国家の宗教」から「神道(神社)非宗教説」へ
明治維新政府の宗教政策は神仏分離と神道国教化を基調とするものだったが、既存の仏教教団を排斥したままの宗教政策が国民の実情からかけ離れていくことは誰の目にも明らかであった。
そこで仏教書教団と僧侶が官製国民強化策の中核要因に組入れられた。
その後宗教行政は内務省社寺局へ。やがて仏教・キリスト教は宗教局へ、神社行政は内務省神社局所轄と行政上明確に区別された。

「宗教局が管理しないのだから、寺社は宗教ではない」といういい訳がまかり通るようになる。

●島地黙雷(神道非宗教説の形成に当たって、決定的な役割をした仏教側の人)の宗教戦略
1872年から1年余りに渡って欧米の宗教事情を視察した島地黙雷は、「神道は宗教ではなく治教であって、歴代天皇が天祖継承の道として奉じ来たったものに違いない」という理論を打ち立てる。
島地のこの理論は、幕末の討幕運動のリーダーたちが「天皇を握ることこそ自分たちの目標達成の要であると自覚した政治リアリズムである。

3、靖国問題を例として
「靖国神社は特異な雰囲気を持った神社である」

日本の神社は市街地にあっては周囲の喧騒を遮断するものとして存在し、山林の雰囲気をかもし出している。そういう意味では自然への入り口へと存在しているように見える。
だが靖国神社は広大な敷地の割には樹木が少なく、巨大な鳥居も社殿も市街地と地続きになっている。それは自然に通じる通路となることをことさら避け、逆に首都の日常に向かって吐き出しの自己主張をしているように見える。それは、戦死者の「穢れ」と切り離せない存在だからであろう。

しかし、日本では恨みをもった霊はタタリ神となるが、時間の経過と共にタタリ神から守り神へと昇華していくのが、わが国の神信仰の通例である。(弔い上げ・・・死後33年、または50年)
彼ら戦死者は「英霊」として特権を与えられたことと引き換えに、死後50年以上もたった今弔い上げされない霊であることは異例である。

●「新追悼施設」をめぐる迷走
毎回毎回アジアの隣国から抗議を受けるようなわずらわしさから解放されて、首相を筆頭とする政府要人がわだかまりなく戦死者に対して慰霊・追悼の心情を表す場所がほしいというのが本音だろう。
しかし、
・翌年出された報告書では、明治維新以降の戦死者及び戦争に起因するさまざまな死者を、戦後の国際平和活動での犠牲者も含めて想定している
・神社の名称がない
・どのように使用し、どんな式典を行うか
などを次の政府に判断をゆだねただけで、腰の引けた内容である。どうやら積極的に問題を解決しようとはしていない。

●「英霊」たちの「人間宣言」
・靖国はかつての所轄が陸軍、海軍である
・天皇(現人神)自ら参拝する
以上のことから「戦死すれば天皇がみずから参拝する靖国の神になる」と言う条件付でバランスを保った。
しかし、天皇は戦後、人間宣言をし象徴となっている。ならば英霊もその時に「人間宣言」をすることが出来なかったのであろうか。
平時の死者ならとっくに弔い上げされてご先祖様になっているはずの死者の霊が、未だに「××××命」という祭神として祀られているのは不自然である。



第5章 祖先祭祀と他界観

1、柳田国男と「先祖の話」

●「国有信仰」の危機
柳田国男(民俗学の創設者 1775-1962)は、その学問の重要な目的は日本人の「固有信仰」の解明にあると考えていた。
彼は著書の中で、来るべき戦後日本の社会にとって、戦死者の鎮魂と言うテーマが国民全体の大きな課題になることを予告していた。
彼が日本の民俗の根底にあると考えた「固有信仰」と言うものは、仏教受容のはるか以前から連綿と持ち続けてきた祖先霊に対する丁重な信仰のことを意味している。

仏教の経典が示すように死者ははるか遠い極楽や深い地獄に行くのではなく、故郷に程近い山にとどまり、常に家族を見守ってくれているだけでなく、盆や彼岸には家族の元に帰ってきてくれる・・・このような祖先に対する尊い信仰こそが、我々日本人の固有の信仰なのだ。

●血族を絶やさないということ
祖先の霊がつつがなく子孫と交流をもちうるのは、彼らの霊を供養する子孫が代々途切れることなく続いてゆく限りである。
しかし、戦時中は結婚前の若い男性が多数死に、血族が果たして続くのか・・は誰の目にも明らかであった。

その際柳田は、普段聞きなれない「血食」という語を用いて、「日本人はなんとしても血食を絶やしてはならない」と述べた。
「血食」とは漢語で供養の際動物のいけにえを供えること」であるが、
日本人はコメを供えてきた。これには柳田も同調し、むしろコメを供えることを強調していた。
これは、柳田の主張が、インテリならではの語句の使い方をしただけで
死者の霊の具体的な供養とは少し離れた見方をしなければならない。

2、折口信夫の霊魂観
折口信夫(歌人・国文学者 1887-1953)
折口は師である柳田の先祖の話の主題を受け継ぎ、「民族史観における他界観念」を書いた。

折口のいう3つの霊魂
1、充分に祀られることによって安定した祖先霊になっているもの
2、祀りが開始されたばかりで安定はしていないが、いずれ安定する霊
3、浮かばれるあてのない未完成の無縁霊

柳田がそういう未完成の霊に対する気がかりの解消法として、国民こぞっての無縁霊に対する祀りの継続を強く要請したのに対して、折口は沖縄の「血食」の信仰を出す。

●沖縄の葬送習俗から
ジュゴンやいるかを家々の守護霊とし、それを捕獲してみなその肉を食うのを、折口は「血食」と言う。そして、沖縄本島で死者が出たとき、一族が豚の肉を「真肉(マジジ)」と言って食することに通ずると言う。

血の滴るいけにえを先祖の霊が食べると言う中国式「血食」は、折口の手で大胆に変えられ、先祖であると信じる海獣の肉を血のしたたるままに共食いする行為を刺すことになった。本来はさらに、葬儀の場において死者の肉を親類縁者が共食いすることに由来するとまで考えられた。
しかし本土には「骨噛み」「骨しゃぶり」などの語で、使者の骨を縁者が食べることが報告されているから一笑に付すことは出来ない。

3、自然葬に見る他界観
「自然葬」は「葬送の自由をすすめる会」が「墓からの自由」を旗印にして、1991年も相模湾の沖合いで散骨を実施し、この行為によって法務省が「節度をもって行われる限り、刑法には値しない」と判断したことによる。
「多くの共感者を呼ぶ理由」
1、墓の社会的な現状に対する反発
・僧侶の法外な戒名料の請求
・心のこもらない葬儀会社主導の葬儀に対する不信感
・都市部における墓地不足と価格高騰
2、墓に対する宗教感情の変化
・死者の霊魂が墓石や位牌に宿っていて、墓参りをしたり僧侶に読経してもらえば成仏するという考えは過去のものだ。にも関わらず僧侶は成仏の観念に寄りかかって、葬式の年忌法要を繰り返している。何のために墓が必要なのかという一般の人々と宗教人との認識のずれは日増しに広がっている。
3、少子化・核家族により、墓を代々管理していくのが困難になった
・現行の墓の法的な位置づけが、明治民法化の家督制度の観念を引きずったものになっており、婚出した女性が実家の墓を継ぐことが困難な制度は「父系的イデオロギー」の露骨な表れと移り、非難の的となっている。
4、環境意識の高まり
・郊外の緑を破壊して高額で分譲される墓苑に遺骨を納めるよりも、むしろ海や山に遺灰を帰して自然に帰すほうが地球に優しい。

●自然葬批判と死者儀礼の将来
1、日本人の霊魂観を無視している
・親鸞は遺体を加茂川に流せと言ったが、弟子は埋葬した。これは日本人の民俗としての伝統だからである
2、自然葬の会は矛盾した行動をしている
・墓が要らないと言う割には「北緯何度・東経何度と詳しく言う」
3、海に花束を投げるのは見苦しい
・遺骨を海と言う綺麗な場所に捨てたいだけ。いらないなら火葬の際に高温で遺灰も残らない状態にすればよい

これについての推測
・従来の墓と僧侶がセットになっている現行の方法から脱却することのみに重点が置かれ、その代役として選択された「自然葬」にはきめ細かい考察が必ずしもされていなかったのではないか
・自然葬をする会員にも色んなパターンがあり、海上に僧侶を呼ぶ人もいる。このように「会」は墓からの自由を主張しているが、決して宗教からの自由まで唱えてはいない。

第6章 古代の神々

1、記紀神話の構造

●古代の宗教はどのようにして知られるか
・考古学遺物(埋葬骨のあり方・土偶)
・古墳(死後の世界のあり方)
・古事記、日本書紀(これを記紀神話という)

「古事記」
上巻・・神代
中、下巻・・神武天皇から推古天皇までの天皇の事跡
「日本書紀」(全三十巻)
はじめの二巻・・神代
残り・・神武天皇から持統天皇

日本の神話の特徴
ギリシャ神話やインド神話のように、それ自身で完結するわけではなく、旧約聖書のように神の世界から人間の世界に直結するわけではない。日本の神話は歴史に結びついていく

●神々の世界(古事記より)
<第一段>
神代七代(名前のみで抽象的)の最後の2人がイザナギとイザナミであり、二人は海におのころ島を作り、契りを結んで沢山の島々と神を生む。最後に火の神カクヅチを生んだとき、イザナミは陰が焼けて死に、黄泉の国に逝ってしまう。

・島々が性交によるものであり、無からの創造でない
・日本の神話は神々の誕生は書くが、人の誕生は書かない

<第二段>
死んだイザナミが恋しくて、黄泉の国へ行ったイザナギはウジがたかり、醜い姿になったイザナミを見る。死の穢れを禊(みそぎ)によってはらう。その時左目を洗ったときにアマテラス、右目を洗ったときにツクヨミ、鼻を洗ったときにスサノオが生まれる

・これで「みそぎ」は神道の重要な行事として定着する
・性交を伴わない誕生

<第三段>
天の高天原の支配権を持ったアマテラスは、暴れるスサノオに嫌気が差し、天岩戸に隠れる。その時神々はアメノウズメのエロティックな踊りで大騒ぎし、アマテラスを引き出すことに成功する。

・太陽の力が弱まる冬至に、その力を呼び起こす儀礼に由来するのではないか

高天原を追放されたスサノオは、出雲の国でヤマタノオロチを退治してその国に定住し、その子孫にオオクニヌシが現れる。このオオクニヌシが高天原の神々に服従することを誓う
・天地の秩序が確立する→ここから天皇の支配の根源となった「天孫降臨」の話となる

アマテラスの子アメノホシホミミは地上に降りる権利を子ニニギに譲った。ニニギにはホテリ(海幸彦)・ホヲリ(山幸彦)の子がいる。
ホヲリが海神の娘と結婚し、その間に生まれたのが神武天皇である


●神話から歴史へ
ここまでが「古事記」の上巻で、「日本書紀」でも神代として扱われる範囲である。もちろん歴史時代に移ったからといって、実際の歴史を書いていると言うわけではない。

<古事記の整理>
上巻の神代と、中・下巻の歴史時代に別れ、神代の神話は
1、神々の名前を列挙するだけの神々の世代
2、イザナギとイザナミの国うみの話
3、アマテラスとスサノオによる高天原と地上と秩序の形成
4、天孫降臨による歴史時代への過渡期
の4つに分かれる。

2、記紀神話の背景
●記紀の成立と時代背景
7世紀半の天武天皇の時代に歴史書の編修が始まり、8世紀前半元正天皇の時代に完成したものと思われる。
戸籍が作られ、租税制度も整備され、天皇を中心とする政治システムが確立した時代である。

なぜアマテラスの子が降臨せず、孫が降臨したのかというのも、当時の皇位継承問題と関係が深い。実際に息子が即位する前に病死し、孫が継いだ事実がある。このようにアマテラスを頂点とし、天皇へとつなぐ記紀神話の構造は決して古いものではなく、記紀編集時に構想されたものであると考えられている。

●アマテラスの誕生
アマテラスは伊勢神宮の内宮に祀られている。「日本書紀」によると、それまで宮中に祀っていたアマテラスを第11代天皇の時に伊勢に鎮座したという。

もちろんこれが信じられるわではない。おそらく神の祭祀と政治に距離をとらせたものであろう。記紀神話というと仏教と無縁のように思われがちだが、7~8世紀にかけて形成されたとなれば、仏教の影響を全く受けなかったとかんがえるほうがおかしい。

3、日本宗教の<古層>

●丸山眞男の<古層>論
記紀神話の中で古代の宗教観をうかがうことはできないだろうか。
神話・歴史の根底には「つくる(創造)」という発想がない。
「うむ」ことは重要であるが、それより前におのずから「なる」という
発想がある。
このような発想は、人為を排しつつ、全てを「不断の変化と逆転の相の元にみる」ことにより、「不断に移ろいゆくものに価値を置く」ものである。

●日本の神の性格
神は決して道徳的に優れていて、人々の模範になるのではなく、人々の善意に従って賞罰を与えるものでもない。人知を超えた恐ろしい力を持つのが神である。怒らせると厄災を招くことになるが、丁寧に祀れば幸いをもたらしてくれる。
神は定住するものではなく、外から訪れるものである。

元々社殿を持って神を祀るものではなかったが、現在の様子から仏教や仏像の影響がうかがわれる。

●「神道」という呼称
神道と言う言葉が中国の古典に由来すること、日本においても多義的に用いられることは定説となっている。
神道が教理的な意味を持つようになったのは、中世になってからである。
・第一段階・・・7C後半から平安時代までの期間で、この間に独自の神話と祭祀体系が形成された。
・第二段階・・・鎌倉、室町期で、明らかに「神道」と呼ばれる宗教体系が出来上がってきた。多くは神仏習合という形を取った。

日本の宗教史は、はじめから神仏の相互影響を通じて形成発展するのであり、あえていえば、純粋な神道も純粋な仏教もありえない。


第7章 仏教の日本化

1、仏教の伝来

●仏教の伝来
歴史時代になると、「古事記」ではなく「日本書紀」のほうが主となる。しかし、神話に関して大きな作為が認められるとするならば、歴史時代についても、そのまま信じられるかは疑問である。

「日本書紀」の仏教伝来の記述は信憑性が薄いと考えられている理由
・日本書紀にの表文「金光明最勝王経」が703年に漢訳された「最勝王経」のリメイクである。それが仏教伝来の552年次に用いられているのはおかしい。(時代が合わない)
・仏教を国に入れるかどうか議論した結果、当時の天皇の家臣が寺を破壊し、仏像を捨てたところ宮殿が焼けたという話があるが、よく似た話が仏典にもある。

●聖徳太子の実績
推古天皇の皇太子であり、六世紀末から七世紀はじめにかけて「冠位十二階」「憲法十七条の制定」「遣隋使の派遣」「四天王寺や法隆寺の創建」などがある。
しかし、四天王寺はもっと後に建てられたとされるし、憲法十七条には当時ない国司などの職名があるなどおかしい点が多い。
太子についてはもっと疑問が多く、そもそも皇太子の制度もなかったのでその地位は奇妙である。

では、なぜこれほどまでに聖徳太子信仰が盛んになったのか。
その理由は、天皇の子でありながら皇位を継承しなかったことが、当時の仏教の地位と似ているからではないか。つまり、民衆を動かし、人々に浸透した仏教であるが、決して政治に関わらなかったことを意味しているように思う。

2、仏教の浸透

●大仏建立
奈良時代の仏教は、大仏建立によって象徴される。
大仏建立に当たって大きな役割を果たした行基は、もともと民間の布教者であり、その教団は土木事業の才があったので、各地に橋をかけたり、灌漑工事をしたりしていた。つまりこのような官民一体の大事業として大仏建立が成し遂げられた。

●南都六宗の成立
東大寺大仏は「華厳経」もしくはその系統の「梵網経」をより所としている。この時代は教学面でも華厳宗が確立し、南都六宗体制が整った。これらはあくまで学問としての仏教であった。

鑑真によって正式の戒律が伝えられ、一人前の僧になるには、まず師匠について得度し、天下の三戒壇(東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺)で受戒しなければならなかった。

彼らは国によって生活は保障されるが、人数が少ないため
・承認を得ず勝手に得度する「私度僧」
・得度しても受戒しない「沙弥(さみ)」
・出家せずに寺で労役する「優婆塞(うばそく)」
などが出た。

●天皇と仏教

このような私度僧や優婆塞をいきいきと描き出したのが、平安初期に薬師寺の僧「景快」であった。景快自身、妻子を抱えた俗人のような生活をしていた。
景快は仏教に関係ない話を物語の冒頭に加えて天皇の霊威を示し、そのなかに仏教を入れ込める形を取った。

第5話では、聖武天皇を聖徳太子の生まれ代わりとし、行基を文殊菩薩の生まれ変わりとしている。行基は太子と並ぶ聖人として扱われている。

葛城の一言主の神は、吉事も凶事も一言で断言する恐ろしい神として知られていた。
しかし景快の書く物語での一言主はすっかりその力を失っており、その代わりに「役小角(えんのおづぬ)が力を持っていた。
かつて天皇をしのぐ脅威を持った一言主の神も、新たな呪力を身につけた役小角の前には手も足も出ない。役小角は仏教と言いながら山岳信仰をミックスした強大な呪力を持って天皇に立ち向かう。

仏教は高度な理論や深い思想を持たなくとも、むしろ土着的な神の世界に近い領域で
神々をしのぐ力を持って、仏教はその力発揮するといういうのである。そこに日本化し、
土着化した仏教の方向が示される。

3、仏教思想の形成

日本の仏教思想の基礎は最澄・空海などの平安初期にほぼ確立したのであり、その後の思想的発展はその基礎の上にたって応用的に展開したもの。

●最澄・・一乗思想
法相宗の言う「三乗(声聞・縁覚・菩薩)により悟りの別がある」というのに対して、最澄の天台宗は「全ての人は同じく仏になることができる」という一乗説に立つ。
これ以後日本の仏教は一乗説が主流となる。浄土宗・日蓮宗もそれに従う。

●空海・・密教の大成
胎蔵(女性的原理・真理)と金剛界(男性的原理・智慧)を表し、曼荼羅はこの二大原理のもとにあらゆる仏や外部の神々をも配列し、宇宙の秩序を示した。
密教の実践思想の中核にあるのは即身成仏である。
曼荼羅の象徴を用い、仏の身体と言葉と心の三つの働き(三大)と我の三つの働きを合致させることによって、現世においてたちまち仏になることができる。

一般の仏教の教えでは、仏の悟りを開くには何度も生まれ変わらなければならないが、現世でただちに仏になれるという即身成仏の教えは画期的なものであり、悟りを極めて身近なものにした。

第8章 神仏習合の形成

1、神仏習合と神仏隔離

●日本人の宗教行動
神道の神社にも仏教の寺院芋参拝するという日本人の宗教形態はシンクレティズムとも呼ばれ、しばしば宗教的に低いレベルのように考えられて来た。日本人自身も、、自らそのような信仰形態を後ろめたく思っていいる所が有る。

しかし、宗教というと特定の宗教を深く信じていなければならないと言う考えは、欧米から入ってきた宗教観、とりわけキリスト教のプロテスタント系を模範とした宗教観である。
日本人は無節操に神社や寺院に行くわけではない。
生命に関わる慶事は神社が管轄し、凶事の際は寺院が担当するという分担がなされている。
秩序を持って相互に補完しあっているといえる。

●近代的宗教の確立
神道と仏教が異なる宗教としてはっきり分けられたのは、明治の初め1868年の神仏分離令である。政府は1872年に専門の宗教家を教導職として認定し、教部省を設立し、宗教を国家の力で統合しようとした。
しかし、これを強行に反対した浄土真宗・西本願寺派の島地黙雷らは、教部省を廃止に追い込んだ。こうして国家による宗教の強制は失敗し、宗教の自由が確立された。

しかしそこには大きな問題が残った。
1、個人の宗教とはいいつつ、実質的には仏教は家の宗教であり続けたが、新しい宗教の規定ではその面を超えることが出来なかった
2、神道との関係を簡単に切り離すことが出来なかった

ここで島地らは「仏教=宗教」「神道=非宗教」という立場を取ったが、これが後に「神道は宗教ではないのだから国家が介入しても構わない」という強制を許すことになる。

●神仏習合と神仏隔離
神仏習合というとき、注意が必要である。
1、単純に神道と仏教をいうふたつの独立した宗教の関係とはいえない
<理由>
神道の体系は仏教伝来以来、仏教の影響をとても受けている
仏教はインドから伝来したものであるが、そのままの形で日本に入ってきたわけではない
2、神仏習合といっても、完全に融合したわけではない

2、神仏習合の形成

●神仏習合の諸形態
1、神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする考え方
2、神が仏教を守護するという考え方
3、仏教の影響下に新しい神が考えられるという場合
4、神は実は仏が救済のために姿を変えて現れたものだという考え方

●神々の救済(第一の形態)
日本は神を仏教の天の範疇に位置づけたところに発する。
六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)の最高位にある天は、まだ輪廻の最中であり解脱に達していない。苦しむ神を仏が救う
仏教側の利点・・在来の神を支配下に置くことで勢力が伸ばせる
神道側の利点・・仏教の保護を受けることで地位を安定させる

●護法神(第二の形態)
東大寺の大仏建立の時に九州の宇佐八幡がその大事業を援護するために来たと言われるような行い。
仏教側の利点・・土着神の援助を受けることで日本の社会に抵抗なく受け入れられるようになった。
神道側・・中央の勢力と結びついた仏教の力を借りて勢力を伸ばすことが出きる

●新しい神々(第三の形態)
怨霊・・例「北野天満宮の菅原道真」祀られることで国家を守護する善神となる

●本地垂述(ほんじすいじゃく)(第四の形態)
インドに生まれ80歳で死んだ歴史上の仏陀は、神の借りの姿であるという考え

3、複合的信仰の展開

●宗教と陰陽道
平安時代の初めの皇室行事も、国家的な祭祀というより天皇の私的な祭祀という性質を持つようになり、あわせて貴族の個人や家を中心とした祈祷が盛んに行われるようになった。このような背景の中で阿倍清明のような伝説の陰陽師が現れ、物忌み・方違えはケガレの観念の肥大とともに貴族の生活の中で日常化していく。ケガレはこの時代から非常に厳しく戒められるようになり、女性差別を助長するようになった。

●山伏信仰
山岳信仰もこのころますます発展した

●諸信仰の複合
死に関する儀礼は仏教の独占するところとなり、現世利益的な面は仏教・神祇信仰・陰陽道があわせ用いられる。現世利益のうち、子孫繁栄や立身出世は神祇に祈り、厄災の除去などには陰陽道が用いられ、仏教はそのいずれにも関係した。
こうしたさまざまな信仰の根本にあるのは「現世安泰・後世善処」である。

●末法思想
末法というのは、仏滅後、次第に仏法が衰えていく様を、正法・像法・末法の賛辞に分ける一種の下降史観である。これは大臣が自らの存在を宣伝するために伝えたものと考えられる。

末法説と関係するものとして辺土説がある。これは、日本を釈迦の生国インドから遠く離れた辺土と位置づける世界観である。末法の辺土には、仏がそのまま現れて人々を救うことが出来ないから、そこで日本の神として垂述することが必要となる。神でないと救えないから日本は神国と言われるのであり、神国説は元々日本の優位をいうものではない。日本は神によって守護された特別な国であるというのは間違い。


第9章 鎌倉仏教の世界

1.中世仏教の形成

●顕密仏教の時代
中世の仏教と言うと法然・親鸞・道元・日蓮などが浮かぶが、今日の研究によると、
当時彼らの勢力は小さいもので、鎌倉時代にはむしろ異端派とも言うべき少数勢力であった。では、何が主流を占めていたかと言うと、いわゆる旧仏教の諸派で顕教と密教(顕密仏教)である。これらは政治的・経済的にも大きな力を持っていた。
顕密仏教の形成はかなり古く、九世紀ごろに始まるとされている。

●教学の信仰と浄土教
思想的な発展を中心に見ると、平安初期と中期のあいだにかなり大きな断絶が有る。
・天台宗・・9世紀後半以降、約半世紀活動が停滞
・真言宗・・空海以降高野山は衰退し、十世紀半ばになって、「空海が禅に入ったまま弥勒仏の出現を待っているという説を宣伝に使うようになって復興の兆しが見えるようになった。

十世紀半ばにおける教学の復興を象徴するのは、応和の論争である。
これは村上天皇の前で天台宗の源信と南都の代表が法華経について論争したものである。源信が出した本により、平安中・後期によって浄土宗を取り立てて特別視したわけでもないが、体系化され、これが広く人々に読まれた。

源信よりちょっと前、空也が念仏を始めた。これは遺棄された遺骸の埋葬の鎮魂などを意図するもので、密教的な呪術性を帯びたものであった。

●本覚思想
院政期に大きく進展した思想に本覚思想がある。本覚思想とはありのままの現実を肯定する思想で、最も日本化した仏教思想として近年注目されている。
もともと本覚は内在的原理、または目標としての悟りであり、現実をそのまま肯定するものではなかった。しかしそう考えると、もうそれ以上修行して悟りを開く必要がなくなる。本覚思想が修行不要論に陥るとして批判されるのはそのためである。
しかし、それゆえにありのままの自然を重んじる中性日本の文化に適合した。

2、鎌倉仏教の諸相

●新たな実践の時代
院政期の仏教は複合的な信仰が頂点に達し、あわせて儀礼も集大成される。
しかしあまりにも複雑で実用的ではないところから、今度はより単純化し、実践的な仏教が展開するようになる。これが鎌倉仏教の特徴である。

●法然教団の活動
法然教団は従来の浄土教の持っている複雑な儀礼側面や教義面の弱さを克服して、何人をも阿弥陀仏は平等に救済するという説を唱えた。この説は人々の共感を呼び、多くの信者が集まった。
念仏さえ唱えれば救われるとされ、どのような悪事もし放題という主張をするものまで現れた。

●法然の批判者たち
法然の批判者は法然教団の念仏者が邪義を広め、秩序を乱していると批判し、院の権力による念仏停止を求めた。
・明恵・・菩提心(悟りを求める心)がなくとも念仏さえ唱えればいいと言う法然の主張は邪義である
・日蓮・・法華経が仏教の最高であり、念仏を主張する法然は間違っている

●戒律と禅
法然の影響は賛同者・批判者の療法に及び膨大なものであった。とりわけ戒律は大きな焦点になった。法然は戒律否定の傾向にあり、公然と妻帯した親鸞もその流れに立つ。浄土念仏とともに鎌倉時代の新しい仏教として禅がある。

3、鎌倉仏教とその周辺

●仏教と国家
鎌倉時代は仏教と神祇の関係が正面から問われた時代である。新仏教の祖師たちは世俗の国家権力などものともせずに自らの宗教信念を貫いた。法然や親鸞は流刑にも関わらずその信念を曲げることはなく、日蓮も迫害をもろともせずに法華経の行者としての使命にまい進した。

こうした中で当時の主流をなす仏教は政治権力との共存を図った。王法と仏教は相互依存的な関係にあるものとされ、車の車輪にたとえられる。これを王法・仏法の相依論(そうえろん)と言う。

もっとも両者は同じれべるではない。寺院は広大な荘園による経済力や武力も持ちいえたが、それより仏の力をバックにした呪術的な力によって恐れられた。単なる相依存というより、巨大な力を及ぼしていた。

●仏教と神々
世俗的な国家の権威との関係とともに、土着の神祇との関係も大きな問題となった。仏教の絶対的立場を主張することは仏教だけで充分であることを意味する。
しかし、これは筋の通ったものではあるが、日本の社会では現実的ではなく、また実際に仏教者も神祇を無視することはしなかった。それどころか仏教者の中には熱心な神祇信仰者もいた。

●歴史意識の展開
ところで慈円は王法と仏法の両方に関わる立場から、両者を結びつける歴史論「愚管抄」を書いた。愚管抄は承久の乱の直前(1220年)に書かれ、武士と摂関家が協力し、神仏の加護のもとに皇統の継続が成り立つという立場から、後鳥羽上皇による倒幕計画を批判する意図を持っていた。

このように慈円の歴史観は、下降する時代の中で、神仏の加護を仰ぎ、武士と摂関家が協力して皇統を盛り立てる必要があるという危機的な時代認識によるものであった。

本書は「大日本国は神国なり」という有名な文句で始まっている。わが国のみ正しく皇統が伝えられてきたことを述べ、わが国の優越性を見ている。また慈円は仏教にも詳しかったはずなのに、仏教はあくまでも天皇によって用いられるべき政治道具の一つと記している。

第10章 中世神道説の形成

1、両部神道

●伊勢神宮と仏教
本地垂迹説によって新たな段階に入った神仏習合信仰は、院政・鎌倉期に至り、中世神道説を生み出した。かかる教説化の発火点となったのが、天皇家の始祖神たる天照大神を祀る伊勢神宮である。

天皇家の始祖神にはほかに八幡神があるが、両者は神仏関係において、著しい対照を成す。八幡神はまさに神仏習合を体現する存在だった。それに対して伊勢神宮は仏教を忌避する傾向があった。
ただ、ここで注意すべきは、新宮の仏教忌避は後世の排仏思想とは異なり、仏教忌避はあくまでも仏事と神事の混沌を避けるためにすぎなかった。

したがって、伊勢神宮においても、当然のごとく本地垂迹説の影響が及ぶことになる。
第一段階・・大神の本地を観世音菩薩とする信仰が現れる
第二段階・・大日如来との習合(大日如来と天照大神が同体であることを示す)を説き、仏寺建立がまさに神慮にかなうものを示すとされ、東大寺が建立された

ここにおいて伊勢神宮という神祇の聖地と東大寺という日本仏教の中心と重なり合う。さらに行基(668~749)が新宮に参拝して東大寺建立の夢告を得たという説も加わった。このような中から伊勢神宮参拝の気運が起こってくる。これ以降伊勢神宮は中世を通じて日本仏教の聖地のひとつであり続けることになった。

一方で、前述のごとく神宮には仏教忌避の伝統があり、僧侶は社殿に近づくことがかなわず、これが神道書という形式の伝書群を生み出す要因となる。

●両部神道の発生
そして登場したのが密教的神道、すなわち両部神道である。しかしそれはきわめて秘説性の濃いものであって、意図的に難解さを装うものだったのも事実である。そのため、後世に人には訳のわからない付会説にしか見えなくなってしまった。

両部神道書の特徴は、それらが仮託書の形式をとる事である。すなわちその古さを装うことによって権威化を図ったのである。

鎌倉中期以降に現れる書は、空海に仮託されるものが圧倒的に多くなる。その理由は次節で述べる真言宗諸派の伊勢神宮の進出が関係していた。

●真言宗諸派流の神宮進出
鎌倉中期以降の蒙古襲来を契機として、真言宗系諸流派が神宮へ本格的に進出してきた。その代表的存在が西大寺流などであり、これを拠点とした諸寺院が多くの新当初の政策と相承の現場となった。

2、伊勢神宮と神道諸流派

●伊勢神宮の成立
両部神道の成立は、新宮側にも大きな影響を与えることになった。僧侶の新宮への接近に当初肯定的な態度を示したのは内宮荒木田氏であった。それに対し外宮の度会氏はその動きを忌避する傾向がみられた。

ところが、この度会氏こそが両部神道の影響の下に、新たなる神道書の述作と教説を作り上げた。それは外宮は内宮に奉仕する神であって望ましい状態ではなかったからである。

当然のごとく対立・抗争が起こった。度会氏が外宮の地位を内宮と平等、さらには優越する存在とせんとする毛一行はこうして醸成されて行った。結果的にそれが一連の伊勢神道書を生み出すことになる。
これらの内容は、縁起の社殿や行事の由来を説きながら、両部神道説の影響を受けて、内外両宮を日輪・月輪とし同格を示そうとしたのである。

●寺院における神道研究
神宮周辺の寺院における諸流の動きは、神宮の外へも広がっていった。

●神道諸流の展開
中世寺院における神道享受の広がりの過程で、これらの知識を専門に扱う諸流派が現れてくる。

3、山王神道と吉田神道

●山王神道
比叡山の地主神、日吉山王への信仰は、日本天台宗の開祖最澄が同山に延暦寺を開創してより、天台宗の発展とともに成長してきた。
今日、山王神道と呼ばれる教説の存在が確認されるのは鎌倉後期以降のことで、その中心著作は義源によって編集されたものである。

●吉田神道
旧来の伊勢・両部神道説を継承・発展させ、近世神道説へと架橋したのが吉田神道である。その創設者吉田兼倶は吉田山上に奉斎場なるものを建立し、そこに伊勢以下全国の諸神を勧請して、これぞ神武天皇以来の全国神社の根元であると称した。

吉田神道ではさまざまな修法が行われる。中心が神道護摩・宗源行事・十八神行事の三壇行事と呼ばれるものである。三壇行事やその他の伝授作法は密教ないし両部神道の影響が著しく、当時流布していた諸思想を混交させて作り上げたものであった。これは後に大きな批判の的となるが、神道についてはじめて体系的教理を確立した点においては、近世神道説の始原と言うべき存在であった。

プロフィール

Mikami Kako

Author:Mikami Kako

おことわり

保育士・図書館司書に関しては、旧システムによるものなので、現在のもの科目編成や内容にずれがあります。放大についても閉講科目が含まれます

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