第七章 明治時代における音文化政策

1.明治維新前後の音楽状況

①明清楽(ミンシンガク)

江戸時代に明と清から日本に伝えられ、日本に伝承されてきた中国音楽の総称。清時代の世俗音楽とそれを演奏する「月琴・笛」なども明治時代から日清戦争までは広く普及していた。

②洋学者による西洋音楽への関心
③西洋式軍隊とその音楽

2、明治政府による方針と具体策

1877年 音楽取調掛(1887年に「東京音楽学校」となる)
1881年~1884年 小学唱歌集は日本の古典によった歌詞を西洋音楽の旋律で歌わせるもの

<小学唱歌集の特徴>

■リードオルガン(またはピアノの使用)
■歌詞は忠君愛国・故郷の重視・日本の自然などに限定される

しかしそれより前の1877年に発表された「保育唱歌」は西洋音楽とは無縁で雅楽の作曲家が日本の古い音組織と楽器法に従って復古調にしている。

<保育唱歌の特徴>

■歌うもの 和琴(雅楽に使用される六弦の箏)と勺拍子(シャクショ      ウシ・・拍子木)が伴奏する
■遊戯用唱歌 勺拍子だけが使用される

その他学校以外ではヴァイオリンで演歌・軍歌を演奏する。

3、明治時代の邦楽の変化と洋楽有利の場

明治維新になったからといって邦楽の様式が突然変化したわけではない。それどころか名人が多数出て新曲が作られた。
(理由)当道と普化宗の廃止→箏と尺八への自由化
              中尾都山による「都山流」の成立
<教え方の変化>

今まで口頭伝承だった邦楽に西洋様式の「楽譜」を取り入れた。
これは大切なことである。

能・狂言の専門家はパトロンである幕藩体制が消滅したため、明治時代に入って経済的に困窮したが、華族、政治家、財閥、学者が理解することによって再び安定を得た。

4、東アジアへの影響

日本人は近隣諸国を見て、管弦楽団があるのが当然と思う傾向がある。
しかしこれはヴェトナムとモンゴルを含めて中国文化圏の特徴に過ぎず、東南アジア、南アジアでは西洋式管弦楽ではない伝統的な合奏が
力強く伝承されているのである。したがって、明治の音文化政策に由来する西洋化を、アジア共通のものと捉えてはいけない。

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第六章 明治時代における服飾文化政策

1,はじめに

<日本の服飾文化と政策>

603年 冠位十二階
8Cはじめ 衣服礼
9Cはじめ 唐風模様
その後も各種の服制・禁令などがある

2,洋服との出会い

日本人と洋服との出会いは、16Cにさかのぼる。キリスト教布教のためにやってきた宣教師たちの衣服をみたのが最初。

1853年 ペリーの来航
1858年 オランダ官軍の服色及軍装略図
1861年 衣服冠(帽子)履(靴)等異様の製禁止の礼

一般の着用は禁じていても、一部の軍隊などには「外国製に紛らわしくないものなら着てもよい」とされていた。

3,洋服の採用

1)軍服制度

1867年 陸軍伝習隊 フランス式洋服
1870年 陸軍 フランス式(当時強い軍隊だから)
    海軍 イギリス式
1919年 陸軍 ドイツ式に変更(フランスが戦争に負けたため)

2)礼服制度

1872年 礼服制度
    大礼服
    通常礼服(燕尾服)
1877年 フロックコート(今はもうないが紋付き・袴に相当する略例             服)

女性はコルセットで締め付けて着るドレスだったことや社会的に表に出る存在ではなかったこと、着物が西洋の染色技術を取り入れて華やかだったことなどから洋服礼装は普及しなかった。

4、洋服への視線

1)西洋人の目

1877年ベルツの日記
「日本人の西洋の風習の誤った模倣ぶり、しかもグロテスクなまでの模倣ぶり・・・」

モース
「日本人のある者が、我々の服装をしようという企ては、時として滑稽の極みである」

ケーベル
「一種の美的罪悪である」

2)日本人の目

突然の洋装採用については当然賛否両論があったが、従来見慣れた和服の礼装とは違って、一種のあこがれを持ってながめられた。
身分や地位のある人の礼装を洋服にしたことによって、洋服は立身出世の目印となった。

5,洋服と和服

男性より遅く始まった女性の洋服は、制度とは無関係であったから、むしろ日常着として浸透し、和服が礼装の位置に残った。こういうことから洋服の男性と和服の女性が並ぶことになんら不自然を感じない。

第三章 文化政策の変遷=芸術文化を中心として=

1、戦前の芸術文化政策

●第一期(明治維新~1907年第一回文部省美術展覧会開催まで

<音楽>

1879年 文部省音楽取調掛の設置により洋楽教育の実施と唱歌教材の作成
1886年 唱歌・音楽の必修措置
1887年 東京音楽学校創設

<伝統音楽>

1870年 京都・奈良・大阪の三方楽所の楽人を集めて雅楽局設置

<美術>

陸軍士官学校や工部美術学校で洋画教育が奨励される
1877年 内国勧業博覧会などで官設美術展開催
1880年 欧化主義への反発からフェノロサ・岡倉天心による「邦画伝統尊重論
1887年 西洋画科が設置され本格的な人材養成がされる

第一期の芸術政策は、西洋芸術の積極的な導入と日本古来の伝統芸術の
再興を2つの柱としながら、主として音楽教育と美術教育を中心として政策が進められた。


●第二期(1907年~)第二期(1919年~終戦まで)

<第二期の特徴>

1907年 文部省美術展覧会は勧業を意とした美術展覧会に対し、純粋に
芸術の観点から美術振興策を講ずべきであるという目的で開催された。

対象が美術に限られたものの、はじめて純粋芸術の振興を直接目的とした政策が推進された。

<第三期の特徴>

美術だけでなく文学・音楽・演劇などの分野も含む芸術全般にわたる奨励機関として1937年「帝国芸術院」設置。
同じく1937年 文化勲章の制度

このように戦前の芸術政策に関しては、美術の分野における展覧会の開催・芸術家の顕彰・優遇という間接的な振興が意図されたにとどまり、積極的に芸術の振興を図るまでには至らなかった

●芸能一般に関わる政策

1882年 脚本の検閲制度
1925年 治安維持法より検閲と上映禁止の措置が強化される
1935年 レコードが取り締まりの対象となる
1937年 NHKの洋楽放送の全国放送から都市放送への切り替え、ダンスホールの強制廃業
1939年 映画政策について制限をする反面、国民文化の向上に費やす映画の奨励が行われた
1940年 新劇劇団の解散命令
1941年 ジャズの演奏禁止措置

2、戦後の芸術文化政策

●第一期(1945年~1950年末)

1946年 芸術祭

戦前の政策の是正と芸術祭開催という場を提供するだけにとどまった。

●第二期(1960年~1970年前半)

1968年 文化庁の発足(芸術文化などの諸政策と文化財保護政策が一元的に推進される体制が整った)
民間芸術団体に対する国の女性が開始される
国立劇場の設置
公立文化施設・歴史民俗資料館の設置

この時期には「文化の時代」の標語の元に芸術文化のみならず、生活文化まで視野に入れた幅広い文化政策の展開が要請された

●第三期(1970年後半~1980年代末)

芸術家国内研修制度
オペラ歌手養成事業
芸術作品賞・こども向けアニメーション映画作成奨励金
舞台芸術創作作品賞
国立国際美術館の設置
第二国立劇場(仮称)

この時代は「地方の時代」の正午の下に地方恐恐団体の文化行政が前向きの方向をたどるようになった

3、戦後の第四期(1990年以降~現在)

●芸術政策

1990年 芸術文化振興基金創設・社団法人「企業メセナ協議会」発足

国・芸術団体・モン間企業の三者間の関係に転換

●文化施設の整備と地域文化政策

1997年 第二国立劇場(仮称)=新国立劇場の名で開場。現代舞台芸術の拠点が完成する。
九州国立博物館・新国立美術展示施設・国立組踊劇場(沖縄)の設立に向けた調査研究開始

文化政策が観念的ながら各種政策の上位におかれ、総合政策としての色彩を帯びることとなる

第二章 アートマネージメントと文化政策

1、民間企業への文化アプローチ

●企業に四つメセナ活動

1990年社団法人「企業メセナ協議会」が設立。その援助金はバブル経済後の不況下にも関わらず、1社当たりの支援額は95年依頼ほぼ同額。
企業メセナはこれ以外にも人材派遣や場所、機材の提供をする場合もあり、今日定着していると言えるであろう。

●舞台芸術公演の収支

1994年度におけるプロのオーケストラ22団体の収支構成
事業収入(入場料・公演料・放送料など)53%
支援収入(補助金・寄付金・協賛金)39%
残り一割が個人負担

支援収入の内訳は国が66%、スポンサーが34%。
当面要請されることは個人負担金が0になること

芸術文化団体側にも広報宣伝のあり方・放送を利用した作品の普及・
販売への配慮・友の会の維持など改善すべき点がある。

●公・私両部門の連携

芸術文化支援の動機や形態にはさまざまなものがあるが、必要なことは
それが単なるスポンサーないしパトロンにとどまることなく、相互に協力し合うパートナーとして、芸術文化に関わり、振興を図ろうとする自覚であろう。

2、文化経済学とアートマネージメント

●「文化経済学」の提唱

米国では1,965年「米国芸術財団」設立
英国では1,976年「芸術支援企業協議会」設立
フランスでは1,979年「商工業メセナ振興協議会」設立
日本では1980年代後半「文化経済学会」設立

「文化経済学に対するケインズの最大の貢献は、政府の新しい役割を
明らかにするだけでなく、独自に公共性の領域を設定しその議論を展開
していることにある」(的場信樹)


●アートマネージメントの必要性

①官民両サイドから支援を得ようとすれば、その収支を明確にする必要がある
②芸術文化団体には専門のアートマネージメント担当者の存在が必要がある

3、アートマネージメントと文化政策の関連

●アートマネージメントの意義
芸術家の才能と、それをマーケットに提案するのに必要な資本と組織、
そして作品を教授する観客の三つの要素を繋ぐのが芸術経営の基本

●アートマネージメント論と文化政策論の統合

今後は日本の実情に合った経営科学としてのアートマネージメント論の
確立が、速やかに実現することが望まれる

第一章 「文化政策学」確立の視点と「芸術文化政策」

1.「文化政策」の明確化と総合化の必要性

1.「文化政策」の明確化と総合性の必要性

●1990年代における文化政策の進展

「芸術文化振興基金」の設立とともに「企業メセナ協議会」が発足し、
これにより従来の芸術文化団体民間企業の三者間の関係に転じることになった。

●文化政策の明確化の必要性

戦後、わが国は戦前・戦中の芸術文化活動に対する抑圧の反省から、芸術文化に携わることを極力避けてきた。そのために明確な理念が存在しなかった。

1960年代は文化庁の設置により支援措置は拡大して行ったが国がこれに
積極的に関わる理念はまだ不明確なままだった。

そんな中1980年代において財政再建のための補助金抑制措置の影響を受け、芸術活動は重大な危機に直面した。その中で文化庁は企業メセナの
必要性を強調。

1990年に企業メセナ協議会が発足し、公・私の役割分担と相互補完を含む総合的な文化政策への転機が要請される。

●文化政策の総合性の必要性

<文化庁の5つの対象領域>
・文化の振興と普及
・文化財の保護と活用
・国語の改善
・著作権の保護
・宗務行政の運営

国レベルにおける分散化の傾向、地域レベルにおける総合化に見られるように、今日、文化政策は混乱をきたしている。文化政策には隣接諸政策を包括した総合化と、それによる高度に洗練された政策分野としての枠組みの構築が必要である。

2、「文化政策学」確立の視点

●文科経済学、アートマネージメント論と文化政策学

1990年前後から芸術文化支援のあり方を中心にラスキンやモリス、ケインズへの言及も盛んになる。
この頃からアートマネージメントの必要性が提唱され、1992年「文化経済学会」が発足。その後大学でも独立の文化政策関係学部も設置され始めた。

●「文化政策学」体系化の4つの視点

①わが国の文化政策の実態を踏まえて、その体系化と理論構成を図ること
②これまでの政策科学学において蓄積された手法により、政策内容、政策形成過程などの分析が行われる必要性がある。
③文化政策と関連する諸政策を視野に含めること
④先行の文科経済学、アートマネージメント論との連携を図ること

3、「文化政策」と「芸術文化政策」との違い

●文化政策の対象領域
・文化の振興と普及
・文化財の保護と活用
・国語の改善
・著作権の保護
・宗教行政の運営

●文化政策の機能

文化政策は
「文化の頂点の伸張」(縦軸)…芸術を指す。
文化の裾野の拡大(横軸)…①地域間における文化活動の是正を図る
             ②地域の固有性を持った文化活動を通じて
              主体性と自立性を確立する
この2つの機能がある。

<具体的な発現の方向>
①文化基盤の整備(施設の整備・芸術家の育成など)
②芸術活動の奨励・援助
③国民の文化への参加の拡充
④文化財の保護と活用
⑤文化の国際交流

●芸術文化政策の位置づけ

文化の範囲は
「芸術文化」…文学・音楽・美術・演劇・映画など
「生活文化」…茶道・華道・香道・盆栽・服飾・料理など
「国民娯楽」…囲碁・将棋など




プロフィール

Mikami Kako

Author:Mikami Kako

おことわり

保育士・図書館司書に関しては、旧システムによるものなので、現在のもの科目編成や内容にずれがあります。放大についても閉講科目が含まれます

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