第15章 人間学の総合性

1、主知主義への挑戦

●総合的全人の哲学
人間学は、人間の本質を単一の機能に代表させて捉えるのではなく、人間を全体的に人間として理解しようとする発想である。西洋の人間像は、長い間知的理性に本質を求める主知主義へと傾いてきた。そのことに対する反省が、この人間学的思考を哲学へと取り込むことになった。
もっとも、主知主義は、歴史的には重要な大きな役割を果たした。近代科学を急激に発展させ、我々は恩恵をこうむってきた。しかし、無反省な技術科は、かえって人間の幸福を脅かしかねない事態を招くことになり、知性一辺倒への批判理性の限界の指摘が生じる。その第一歩がカントによって踏み出された。

●主意主義・主情主義
シェリングは、人間を意志(人間の根源的な創造力)と悟性(分別をもたらす知的な働き)と精神(目的定立として作用する機能)の総合として理解することを人間学と称した。この中でも意思が一番重要だとし、人間の本質は意思であるとした。

また同じ次期に、心学の人間学科という形で人間学を説いたのがフォイエルバッハである。彼もまた、人間は知・情・意の諸機能の想像として人間を考察した。キリスト教の三位一体が、人間では知・情・意として働いていると説く。とりわけ、キリスト教が愛を本質として歴史的に名を残しているのは、人間の愛という感情に機能しているからだと説く。

彼らは、確かに主知主義に対する明らかな挑戦をしているが、シェリングは意思を人間の本質といい、フォイエルバッハが愛(感情)を人間の本質と言う「主意主義」「主情主義」の立場を取るのは、主知主義と同じく、特定の機能に人間の実体や本質を求めているだけで、全人の総合性を掘り起こしたとはいえない。

●生の構造関連
この点で、ディルタイの考えはさらに一歩前進する。ディエルタイは、人間を主知主義のような知る人間ではなく、生きる人間と捉え、人間の存在全体を生と呼んで、生を人間的機能の総体とみなした。そして、この諸機能を知(対象把握)・情(価値規定)・意(目的定立)の三系列とまとめながら、生をこの三者の作用関連とみなした。また、ディルタイはその中のどれかに特権を与えるようなことはしなかった。

ここには人間を特定の実体や本質から解放して、関係存在とする動機が働いている。だが、人間の総合性は、はたして諸機能の総和で説明するだけで済むのであろうか。と、言う疑問をハイデガーは投げかけている。

2、総合としての無

●有限性としての自覚
人間は総合としての自覚を考慮し、反省しつつ、自己責任で自己を創り上げていってこそはじめて充足した人間と言えるのだと語ったのは、キルケゴールである。
神は死んだと言うニーチェも、人間は超人であらざるを得ない運命を甘受するほかにないと言う限界を述べている。有限性を自覚しつつ積極的に引き受けることが、自分の主体的な生き方だと言う。
ヤスパースも、限界上古湯の体験的自覚による挫折を通じてこそ、真の実存への飛躍が可能になるといい、ハイデガーも、人間性の有限性の問いを中心におく、形而上学の基盤の上に人間学は構築されるべきだと言う。さらにヤスパース、ハイデガー、ロッタッカーも、人間の死の問題に、有限性自覚の大きな鍵を認める。

●無と自由
人間の有限性は、人間の無に繋がる。
キルケゴールの絶望ないし罪と言う有限性は、実体存在ならぬ関係依存の無根拠の人間が、関係項のひとつを根拠にするという倒錯であった。人間は本性上、本性を欠いた無なのである。
ニーチェは、ありもしない彼岸の真理を求める真理を、ルサンチマンに基づく無への意志のニヒリズムだと非難するとともに、人間は常に無へと超え出て行く積極的なニヒリズムの体験者だと説く。シェーラーにとっても人間は無に立つ者であり、プレスナーも脱中心的人間の無について語る。ロッカーターは、無へと超越する人間の有限性の自覚に言及した。

ところで、この無は、人間にとって決してネガティヴなものではない。
キルケゴールは、不安を呼ぶ無が自由と言う大いなる可能性といい、ニーチェもまた、そのつど勇敢に立ち向かう行為は、力への意思だと言った。シェーラーによれば、否を言いうる人間は、否と言うことで無へと落ち込むが、それは同時に無の中に立つ瀬下記開放性の自由の体験であり、ゲーレンの言う欠如態も、可塑性(かそすせい)という大きな免除行為につながる。人間における無は、自由と表現しなおせる事態なのだ。

●責任と有限性
ところで、自由が単なる無に終わらないのは、人間がその自由を用いて、これこそ自分と呼べる責任のあり方を作り出していくからである。
人間にとっての自由の行使は、ハイデガーがこれを被投的企投と表現したように、前もって既に時間空間の制約を持った中に投げ出されているからである。現実離れをした空想的自由は、キルケゴールによれば絶望の一種であり、ヤスパースの言うように、人間は歴史的規定性という一般的な限界状況のもとにある。
人間の自由は、さまざまな有限性や必然性のもとで自由であるからこそ、責任の生じうる自由なのである。

3、文化とその多様性

●文化形成の創造性
カントによると、歴史として展開していく世界の目的は文化形成にあり、文化形成とは、学問や芸術という人間の教化育成そのものであった。このような文化を創造してやまない人間の姿を捉えることが一般に人間学の課題である。
シェーラーは、理想を掲げて現実を超えていく否を言いうるものとして、自由な人間のみが文化の創造者であると述べていたが、プレスナーにおいても、世界開放性という人間の自由が、文化の世界たる歴史を形成する根拠と考えられている。
ゲーレンはこの文化形成を欠陥存在の負担免除という人間の自由な働きによって基礎付け、ロータッカーは環境との間に距離を置くことによって生じる人間の自由な働きに根拠を求めた。
自由は、かけがえのない自己という実存の定立の条件であると共に、歴史の中においては分家形成の創造力としても働いている。

●価値や目的の多様性
自由からの創造は、当然ながら多様なものを生み出す。文化ともなれば、その多様性は計り知れない。自由に形成される文化は、個別性や独自性を際立たせる内容を含む。その結果、文化は互いに溝を作ったり、文化摩擦を生み、民族紛争や宗教戦争が起こったりする。
さらに、急速に国際化が進み、地球上で孤立化が許されなくなった現代は、文化相互の無理解による軋轢が生まれやすい。

しかしこういう文化の違いは、人間がまさに自由であるしるしである。国際化の時代を生き抜くためには、自由を掲げて、それぞれの文化の主体性を大事にしながら、文化の多元化を徹底させることが肝要ではないか。カントはすでに、文化の利己主義ではなく、多元主義に立つことが、世界市民という公共性を実現する人間学の目的に沿ったものであると語っていた。そのためには、文化の多様性を容認しつつ、文化の相対比を計り、自国の文化も国際社会の場では相対化される文化の一つであるという自覚が求められる。

●総合人間学という視点
人間を総合的全人として扱う総合人間学は、人間を多様な機能の総合的関係とみなし、各機能の特権を剥奪してそれぞれを相対化することにより、多機能の総合が無であることを示した。そしてそのことが、人間存在の有限性の自覚であることにつながりもした。
本質がないことが人間の本質なのであり、実体がないことが人間の実体なのである。

人間は、前もっては何物でもない無である。人間は、定義不可能者、不断に否を言いうるもの、可塑性に富む欠如態である。その上で人間はみずから創るところのものになる。それも、ある決断による自己実現は、次の決断による自己形成のために、再び可能性の無へと退く、という反復的な生成の元にあるのが人間である。
文化にしても同じことで、既成の文化はいつも次世代の文化の形成のためにあり、乗り越えられる捨石となる。こうして人間も文化も自由を失わない。
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第14章 欠如態の人間

1、プレスナーの脱中心性説

●位置形式
プレスナーはシェーラーのような、低次の層に新たな要素が加わって高次の層が成り立つと言う考えを持っていなかった。プレスナーの場合には、有機体(植物・動物・人間)に階層を設けるとしても、それらの差異はもっぱら位置形式としての違いと説明される。
生物は生物と環境その境界を生物の側に持ち、そのような境界の持ち方によって、ないめんへの関わりと外界への関わりとの二重相を示す。有機体としての生物は、固有の環境を必要とし、環境がみずからの一部になっていると同時に、みずからがその領域における中心点でもある。ということである。

その上で植物と動物との違いと言えば、植物が環境に全面的に依存するという意味で開放的な位置関係を持つのに対し、動物は、身体そのものでありながら、身体を自由に動かす中心としての自己が身体とは別に生じるがゆえに、環境へ向かうだけでなく自立的な面をも示す閉鎖的な位置形式をとる。
事故を越えて中心を意識し反省することのできる人間におけるこの人間の自我の性格を、プレスナーは脱中心性と名づける。そこで人間は「絶対者あるいは神」という支えを求めることにもなる、とプレスナーは言う。

●隠れた人間
脱中心的な位置をとる人間の特質を、プレスナーはまた、隠れた人間と言い表す。脱中心的な人間は、言語や感覚機構や思考形式の中に埋め込まれて束縛されている一面、これらを使いこなして自由であると言う面もある。その意味で人間は世界開放性と性格づけられる。

世界開放性という人間の自由は、人間が文化の世界である歴史を形成することの根拠でもある。その歴史は、かつてヘーゲルが説いた神の自己顕現やマルクスの説いた経済機構のような、進行過程に必然的な法則が支配する歴史ではなく、人間が自由に創りだす歴史、すなわち見通しのつかない未来へと開かれた歴史でなければならない。
人間もそれと同じ事で、自由であるがゆえに不透明である側面を持つ。隠れた人間というのは、その暗がりを指してのことである。

2、ゲーレンの負担免除説

●未確定動物
プレスナーと並んで現代の哲学の哲学的人間学を代表するのが、ゲーレンである。ゲーレンによれば、人間は、他の動物と違って、自分自身を解釈し解明しようとする。このことは、ニーチェの指摘どおり、人間が「いまだ確定されていない動物」であることの証左である。ゲーレンが焦点を据えるのが、「他の動物に比べて欠陥存在に見える」人間の姿である。人間が未確定かつ未完成であるということは、他の動物のように環境への対応が充足されているわけではない、という欠陥を持つ存在だと言うことである。

●欠陥存在
ゲーレンによれば、形態学的に見て、人間は、高等哺乳類動物の中では、「非適応性・非特殊化性・非進化性」の元にある。このような欠陥にも関わらず人間が生き延びているのは、人間が欠陥という負担を軽減し免除する努力をしているからだ、とゲーレンは言う。人間は、シェーラーの指摘したように、世界開放性を有する。動物のように環境にはめ込まれているのではなく、世界から距離を取ることが出来る。だが、この世界開放性という自由そのものが、人間には負担ですらある。世界開放性ゆえに、人間は予見の出来ない世界に投げ出されているからである。
人間は、欠陥の補填という負担免除の軽減行為として、自由に未来に向かって自己訓育を行い、未確定であることに答えようとするのだとゲーレンは言う。

●文化と可塑性(かそくせい)
欠陥を補い負担を免れるために、寒さや風雨をしのぐ住まいを考案し、簡単には手に入らない食糧を自給し、防御や攻撃のための武器を調達する。そのための必要な共同体を形成し、意思疎通のための言葉を創り、人間にとって第二の自然ともいうべき「非自然的文化」を産出する。
また、人間の運動は「並外れて可塑的」である。動物の動きは比較的単純であるが、人間の運動は多様かつ複雑で、組み合わせの豊富さは見当もつかない。この変幻自在な運動の可能性としての可塑性が、多種のアスリートを産むのみならず、多様の芸術家を創りだし、多岐にわたる職人を育てる。
こうして人間は、欠陥存在と言う欠如態の性格から来る世界開放性のもとで、文化を創り上げてやまない、未確定動物なのである。

3、文化の人間学
人間の行為は生命の展開に効果のある選択であり、そこから人間の生活様式としての文化が創られる、ロータッカーは、動物との対比で人間を理解するシェーラーやゲーレンの人間学に歩調を合わせる。動物はそれぞれの種に生得的な固有の環境を持ち、その環境に束縛されるばかりであるが、コレに対して、人間は、環境との間に距離をとる能力を持ちながら環境に束縛されると言う、特殊な位置にある、とロータッカーは考える。動物は衝動を介して環境に没入するが、人間は関心を通して環境を自分の世界にするからである。

環境としての世界を変えることが出来るのは、人間が環境との間に距離をとることが出来るからである。それは換言すれば、人間が所与を否定して超越しうるということである。
といっても、人間にとって神のような生活が可能なわけではない。人間は、動物と同じく死ぬものであるから、有限性を自覚することになる。動物と違って、死にたいして距離をとって、理念的な永生との関係で死をあんずることが出来、そのことを通じて自己の有限性の苦悩を覚える。
このように、人間は理念を立てることによって様々な面での有限性を意識しつつ、それを克服しようとして、多くの歴史的な文化を創出してきたのである。

●ラントマン
ラントマンも、人間は完結した不変性を持ち合わせていないと言う立場から人間全体を問う試みをしている。
<人間学の4つの種類>
・宗教的人間学・・神との関係で人間を考察する人間学
・理性人間学・・人間の本質を理性に求める人間学。理性の賛美が理性の退位へと転じていく過程が論じられる。
・生物的人間学・・動物との対比で人間を扱うが、これでは人間の積極的な規定が出来ない
・文化人間学・・ラントマンにとっての哲学的人間学であり、文化を論じてはじめて全体としての人間を捉えることが出来る
というのである。

ラントマンの人間学の中心の主張は、人間が生活世界と言う文化を生み出す創造者であると同時に、生活世界と言う文化によって産み出される被創者であるということである。
ところが、文化は客観化されたものであるから、人間の外に持ち出されて独立した力を備えるに至る。そして、人間はこの文化からの反作用をうけることとなる。ラントマンは、これを二重の歴史意識と説明する。文化を創り、文化に創られる、という文化の二重の関係こそが、人間の全体構造だ、というのである。

第13章 ハイデガーの現存在分析

1、日常的現存在

●存在への意味への問い
1927年に公刊されたハイデガーの主著は、20世紀の思想界を主導する画期的な書となった。その主題はただひとつ、「存在への意味への問いを具体的に仕上げること」に尽きる。存在とはどういう意味なのか、すなわち、存在を可能にする根拠はどのような条件を備えているのか、を問い直すことが本書の課題である。
今日まで忘却されてしまっている存在を問うこと、が真の存在論であり、哲学の課題であるとハイデガーは考える。

●世界内存在
現存在は、自分であることへと関わることが出来るものであるが、そのような現存在の存在を、ハイデガーは実存と名づける。
ところが、現存在は、平均的な日常にあっては、「この存在の前から逃避したり、この存在を忘却したり」と言う姿で、すなわち非本来性のもとで、この存在への態度を取っている。このようなことになるのは、現存在の根本的なあり方の仕組みが世界内存在という構造にあるからである。

世界内存在とは、世界に慣れ親しんで住み着いていると言う意味である。ところが、そのような親しみつつ生きている日常の世界のもとでは、例えば人間を道具のように扱うことがしばしば生じる。これが典型的な非本来性であり、自己の喪失である。
もっとも、日常的存在が世人という非本来的なありかたをしているからといって、それが道徳的に批判されたり、生き方が虚弱化しているわけではない。むしろ、日常的な世界内存在は、世人自己という自己を強烈に生きている現存在の積極的なありかたである。

●気遣い
世界内存在としての現存在は、自分でそのようなあり方を選び取ったわけではなく、すでに存在させられているという気分のもとにある。このことをハイデガーは被投性と名づける。それと同時に、人間はみずからの可能性のもとで自分の存在を理解しつつ、その可能性の中から、これこそ自分であるといえる実存を選び取っていく面を持っている。自己の自由を行使するこのことをハイデガーは企投と呼ぶ。
さらに人間は、日常的にには自分の本来的なあり方から離反して、自己喪失的に他人へと埋没する。これをハイデガーは頽落(たいらく)という。
人間の存在の根本機構がこのような被投性・企投・頽落の三者の統一事態なのである。

2、現存在の本来的存在

●死と関わる存在
ハイデガーにとっての「全体的現存在」、すなわち全体的人間とは、始めから終わりにいたる人間であり、これは死と関わる存在である。
自己の死は、人間にとって生きている限りいつも未了の出来事である。自分の死は、自分で引き受けるほかにない固有の可能性である。他人が関与することの出来ない没交渉的なものである。また、現存在の究極の可能性であって、その先へと追い越すことの出来ないものである。このような死への関わりのあり方を、ハイデガーは先駆と術語化する。

●決意性
実存の本来性とは、現存在の存在がそのつど私のものであると言う性格を自覚することであった。その実現のためには、死への先駆によって本来的実存の可能性が示されたその上に、その可能性が当の本人によって証されなければならない。その証しをするのが良心である。
「良心はひとえに絶えず沈黙と言う様式で語る」この声なき声に語り応じて、人間は良心を持つ決意をする。これが、自己に固有の存在を開示する決意性である。

このように、現存在の全体存在の先駆という性格と、現存在の本来存在の決意性とが結び合わされて、先駆的決意性という形を取ることで、本来的な全体存在を言い表す。

●時間性
死への先駆としての自分の終わりにいたる全体存在の可能性を理解しながら、自己の非力の責めを負うための良心を持とうと決意する本来的なあり方、これが先駆的決意性である。ハイデガーは、この先駆的決意性に基づいて、現存在の存在の意味を解明する。

先駆的決意性とは、自己の最も固有な存在に関わって、自己の本来性へと企投することであった。この現象をハイデガーは到来と呼ぶ。
先駆的決意性は、また、責めのある被投性の引き受けでもある。現存在は既に存在の出来事の内に投げられていたのであるから、ハイデガーはこの現象を既存と名づける。
さらに、先駆的決意性は、頽落的世界内存在として、あくまでも世界内部的に出会われるもののもとで、そこからの先駆をし、そこからの決意をするのであるから、そのつどの日常の現在の元に生じる事態である。そこでこの事態をハイデガーは現成化という。
そしてハイデガーは、この三つの減少の統一的事態、すなわち「既存しつつ現成化する到来」という統一現象を、時間性と称する。これが存在の意味である。

人間であることは、自由へと開かれた将来と言う可能性からの到来に根拠を持つと共に、それは過去からそのように定められていた既在の事実でもあり、しかもその既在的な到来はそのつど現在の生起する出来事としての現成化なのである。ハイデガーはこのようにして、人間の存在を理解するための地平を時間に求めたのである。

3、人間学

●人間学への言及
ハイデガーの「存在と時間」の中には、人間学、ならびに哲学的人間学という表現がたびたび登場する。これは、ハイデガー自身が「存在と時間」で意図する存在論は、哲学的人間学の基礎の一部をなすものであることを語っている。

●シェーラー批判
「存在と時間」の刊行の2年後に、ハイデガーは「カントと形而上学の問題」を世に問うが、この書はシェーラーに捧げられた献辞を持ちながらも、カントの人間学に関連して、シェーラーの哲学的人間学に対する批判を含んでいる。シェーラーの試みのように、人間を植物や動物などから区別する仕方で人間の領域を確保しようとするなら、それは単に領域的存在論になってしまい、哲学的ではない哲学的人間論として哲学の中心から離れてしまうと言うのである。
ハイデガーにとって、哲学的人間とは、「存在と時間」の試みるような、「有限であることへの気遣い」を基礎に持つものでなければならず、「人間における有限性の問い」を中心におく存在論としての形而上学が構築されてはじめて、その基礎の上に建てられるものなのである。

第12章 ヤスパースの実存開明の考え

1、私自身

●現存在
みづからの哲学を実存哲学と称するヤスパースは、実存を浮き立たせるために、実存とはいえない私自身から説き起こすことになる。ヤスパースは、私が私自身を意識する場合の、客観的に対象化されている私自身を、「現存在としての私」と呼ぶ。この現存在の私とは、日常卑近のありかたとでもいった意味である。
1、空間を占めて運動が出来る身体自我
2、職業などの社会生活で役割を果たしている社会的自我
3、私の創りだした業績によって知られる業績自我
4、私の過去として定着している回想自我
がある。

●意識一般
対象を客観視する意識をヤスパースは意識一般と呼ぶ

2、実存開明

●実存
実存の語は、元来中世のスコラ哲学において用いられたもので、例えば、全ての机において共通する普遍概念をしての机のあり方を本質と言うのに対して、材質形状を異にする具体的な個々の机のあり方を実存と呼んだことに由来する。

サルトルが語っている例に拠れば、本質と実存の関係は、ペーパーナイフに関しては、紙を切る道具という本質(定義)が先立っていて、木製や銅製の実存のペーパーナイフは、その本質に従って作られるのだが、人間に関してだけは全く逆で、人間は既に個々の実存として世界に投げ出されているのであり、生きるうえでの普遍的な本質や共通の基準が前もって決まっているわけではない。ペーパーナイフは本質が実に実存に先立っているが、人間だけは実存が先立っていると説く。

ヤスパースは「実存とは、決して客観的になるものではなく、私がそれに基づいて考え、かつ行動する根源であり、何かを認識すると言うことではないような思考過程の元に私がそれについて語る当のものである。実存とは、自己自身に関係し、かつそうすることで自己の超越者へと関係するところのものである。

●交わり
実存とは、真の自分になることである。しかし、そもそも自分が自分であるあることを性格に意識するためには、必ず他人の介在がなければならない。現存在としての自己の認知においても、他の人との共同生活という交わりが不可欠である、とヤスパースは説く。
この実存的交わりをヤスパースは愛しつつの戦いと名づける。

●歴史性
実存としての自己を自覚するためには、自己の歴史性が明るみに出さなければならない。瞬間そのものが日常化してしまえば、それはもはや瞬間ではない。連続の惰性を断ち切って新たな生成が可能になるということは、瞬間がニーチェの語る意味での「永遠回帰」として、またキルケゴールの語る意味での「反復」として、そのつど時間に介入する永遠の受け取り直しでなければならない。歴史性とは、実存の出来事が生起するための条件であり、それが時の充実と言う瞬間なのである。

●自由
実存と言う真の自己を実現しようと思うのは、意思の働きである。実存の実現への意思であれば、自分に忠実であることが大切なのであって、自己自身に背くような意思は、悪である。人間が本来自由であるがゆえに、自己になろうとする自由意志を働かせることが出来るのである。

3、限界状況

●運命愛と無常
私が本当の私自身に出会う実存体験にとって、ヤスパースが最も重視するのが、限界状況である。限界状況とは、われわれがそれに突き当たりそれに挫折する壁のようなものである。
ヤスパースは、この限界状況の一般的なものとして、歴史性規定性と現存在の歴史性とを挙げる。
・歴史的規定性・・人間は自分の境遇を背負って生きるほかにないということ
・現存在の歴史性・・現存在は固定的に客観かされて捉えられるものであるにしても、根底的には歴史の流れの中で不確かではかないものであるということ

●死・悩み・争い・責め
日常は、生きることを当然のようにして生きている人間が、こうした限界状況に直面するとき、みずからの手ではどうにも変えられない限界の内にいる自己に覚醒しつつ、自己を超えた超越者へと目が開かれて、超越者の支配と思うほかにない現実へと引き出される。ヤスパースにとって、全人格をかけた全人レベルでの生きた中での挫折の体験から、自己自身に関係し、超越者へと関係する、真の実存への飛躍が可能となる。

第11章 ニーチェの超人思想

1、ニヒリズム

●神の死
「ツァラストゥストラはかく語りき」の中でたびたび語られる神の死とは、ニーチェにとって、キリスト教道徳が無効になることである。
キリスト教は、人間が真実に生きているこの世界を、空しい罪の世と非難し、現実の生にとっては無であるに過ぎない彼岸に、ありもしない価値を求めている。それは、彼岸と言う無を賛美する倒錯した意思であり、この無に寄り頼むニヒリズムであると説く。

●ルサンチマン
「無への意思であり、生に対する嫌悪である」限りにおいて、キリスト教の価値観は弾劾(だんがい)されなければならない。存在しているはずとみなされる無の世界を神の国と呼んで、これに憧れてきたのがキリスト教であるが、このような事態がなぜ生じたのであろうか。それは生成すると言う課題を永遠に回帰させている現実を苦悩と感じ、それに疲れた者がこうした自分の運命に対してルサンチマン(怨恨感情)を抱き、現実回避しているに過ぎない。
したがって、「神とは、一切の戯言に対する定式なのであり、ルサンチマンの産物なのである」とニーチェは言う。

●プラトニズム
ニーチェの言うキリスト教道徳とは、イエスをキリストと告白する教会の信仰とか、無神論に対する有神論を意味するだけにとどまらない。ニーチェの言うキリスト教道徳とは、永遠の真理を希求する文化の一切でもある。ニーチェはこのような真理への意思は、元を正せば、彼岸のイデアに真理を設けたプラトニズムに由来する、と考える。キリスト教は「大衆向けのプラトニズムである」と説く。

ニーチェがキリスト教道徳と呼んで激しく論詰しているヨーロッパの伝統的価値観とは、むしろ、実はソクラテス~プラトンの説いたイデア界との現象界との世界説、ないし霊魂と肉体との二元論である。
本当に知を愛求するものは「肉体から霊魂を最大限に解放する者」でなければならず、肉体亡き者のように知性の浄化に努める「死の訓練」を行わなければならない。つまりは、知の倫理に対して永遠のイデア的真理の解明に努めなければならない。
ニーチェの語る神の死の中身は、実はこのような古代ギリシャ以来の伝統的主知主義における真理観一般に対しての失効宣告なのである。このようにニーチェも、主知主義を批判し、肉体も具えた人間の全人的生を説く哲学者なのである。

2、超人

●能動的ニヒリズム
ニーチェの哲学は、しばしば、ニヒリズムによるニヒリズムの克服とみなされる。虚妄なる彼岸の嘘を賛美する従前の価値観がニヒリズムであるとして、それを克服するのにニーチェは新しいニヒリズムを提唱しているからである。

<ニヒリズムが二義的である説明>
A、精神の上昇した力を示す・・能動的ニヒリズム
「破壊の激烈な力」であり、神の死の事態を正当に受け止め、固定された諸価値ではないという無の状況に耐えつつ、無と言う自由から主体的な力を発揮するようなニヒリズム。このようなポジティヴなニヒリズムの元にある生の形式を、ニーチェは「超人」と呼んだ。
B、精神の力の衰弱と後退・・受動的ニヒリズム

<超人とは>
・人間であることを特定の実体や本質に固定化して安んじてしまうことのない人間
・何かであることを拒み続ける人間
・不断に自己であることを超出する自己破壊においてはじめて自己であることの出来る者
これはまさに、本質存在であることを拒んだキルケゴールの説く実存としての人間と同じものである。ニーチェが、キルケゴールと並ぶ実存主義思想の祖の一人に数えられるのもこのためである。

●永遠回帰
「人間として存在することは無意味であって、所詮は役に立たない・・人間であることの意味は超人なのである」
「将来と最も遠いものとが、君の今日の原因であれ。君の内にある超人を、君は君の原因として愛すべきである」
「全て直線的なものは偽りである。あらゆる真理は曲率を持つ。時間それ自身が円環である」
円環とは、無から将来へ創造する事が、無化された過去の救済に繋がっていくことである。「これが生であったのか、よし、もう一度!」と、過去以来のみずからの破壊と創造による生成の運命を、そのつど反復的に肯定していくことである。この円環は背後に向かう未来への道とが出会う「瞬間」でもある

これがニーチェの語る有名な永遠回帰である。超人たるべきものは、超人と言う仕方でこの世に投げおかれている自己の運命を、積極的に受け入れなければならない。

●力への意思
さらにニーチェは、超人と言う人間の本来のあり方の根底に、力への意思という生成の衝動を認める。力とは、未来と言う無へ向かって自由に事態を生み出していく可能性のことである。力への意思とは、可能性の持つ衝動性志向性、あるいは、なにかになろうとする自由とも言える。
知・情・意という諸機能は、全て衝動いう力または働きとして理解すべきであること、そしてそれらはいずれもが新しい価値を生み出す価値評価として力への表れだとニーチェは説く。価値評価とは、力動的な生にとって有意味な選択をすることである。
ニーチェにとっても、人間は諸機能の総合であり、諸機能の総合として自由な力への意思であり、無に耐える超人なのである。

第15章 神国・仏国思想と幕藩制

1、起請文の変遷

●起請文とは
起請文とは、自分の言動が真実であることを示すため、神仏に誓約する形式で作成された文章で、誓約状である。
<内容>
前書・・誓約に関する内容を書く
罰文・・誓約に違反した場合に受ける罰の内容と、罰を下す神仏の名を記す

2、起請文の神々

●起請文罰文に見る神仏習合
起請の対象になる神々は、差出人・受取人双方の、または少なくとも差出人の信仰する神でないと意味がない。従って、起請文に書かれている神々は当時信仰の対象であったと考えられる。

●中世から近世への移行と起請文
中世から近世への移行の根底的原動力となったのは、経済的先進地であった近畿地方の農村における農業経営者である。また、中世の自力救済、当事者主義の世界では村落に限らず、個人であっても紛争の解決は実力で解決するか、法的に解決するかは自由であった。

このような中で起請文に関わる行事は全て宗教的に行われた。だが、このような自由な社会では、起請文の罰文の固定化・形式化はありえないはずである。
また、起請文で誓約する主体の信仰は強制されたものではなく、さらに誓約の内容も強制されたものであっては起請文の効力はまるで期待できない。

<例>
秀吉は、太閤検地の施行にあたり、村の責任者(庄屋など)から起請文を提出されている。彼らが浄土真宗の信者であれば、阿弥陀の罰を受けて地獄に落ちると書いてあるが、浄土真宗は元々どんな極悪人も真摯に願えば極楽浄土にいけるという教えなので矛盾している。すなわちこの起請文は秀吉にとっても村民に対しても無意味である。

つまり日本の社会では「日本は神国・仏国」というスローガンの元で、平和と秩序が強制されたと言うことが言える。

第14章 神仏関係の変容

1.中世から近世へ

●中世後期の仏教
室町時代になると、従来の天台・真言両宗に加えて、新しい仏教諸宗の進展が著しく認められるようになった。なかでも禅宗、とりわけ臨済宗は、五山の制度が確立すると、幕府と密接な関係を保持して勢力を拡張した。禅宗は大陸の文化受容の受け皿であり、それを学ぶ禅僧は、大陸の最新の文化に精通した知識人であった。

五山以外の禅の流れを林下(りんか)という。これには臨済宗の大応派や曹洞宗が属する。五山がいわば総合大学のように、当時のエリート文化の最先端を行ったのに対して、林下はむしろ地方に教線を延ばした。

浄土宗では、室町時代に一遍が自由な往来をしたことにより、文化の地方発展に功績があったが、近世の幕藩体制が確立されると、自由な往来が禁止され、弾圧されて衰退した。

浄土宗でもうひとつの大きな勢力となったのが浄土真宗である。一時浄土真宗は経済的に衰退していたが、それを一気に隆盛に持ち込んだのは八代目蓮如である。蓮如は親鸞の信仰中心の教えをより単純化して民衆に布教し、北陸を中心に急激に勢力を伸ばした。時あたかも戦国時代に入り、農村の自治組織である惣(そう)と結びつき、また土着武士も信者に加えて、独自の勢力を確保するに至った。いわゆる一向一揆である。

日蓮宗は、日蓮没後弟子たちが分立して各派に分かれたが、現世利益的な傾向を強め、神仏習合の要素を取り入れて、京都の町衆の信仰を集めた。16世紀には一向一揆に対抗して法華一揆と言われるほどの勢力を得たが、天文法華の乱で比叡山勢力の攻撃を受けて崩壊した。

これらの諸宗は単純な実践法で一般の民衆に近づきやすい教えを説き、それが広い階層に受け入れられた大きな理由と考えられる。

●神道の展開
神道の場合も仏教と同様に根本の原理を求めて理論的な探求が進んでいたことに注目したい。とりわけ唯一神道を立てた吉田兼倶は国常大尊を大元尊神とし、吉田神社に斎場所を立てて、ここに日本全国のすべての神を我実を勧請することによって、諸神の統合を図ろうとした。
●キリスト教の伝来
こうした動向の中にキリスト教が伝えられ、キリシタンとして一時代を画することになる。この時代に伝えられたのはイエズス会を中心とするカトリックであった。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、その指導者の一人であった。

このような急速なキリスト教の広まりの背景には、さまざまな理由が考えられる。戦国時代の下克上社会の中で、従来の価値観が崩壊し、新しい頼るべきものが必要とされたという事情もあり、またもっと単純には、ヨーロッパとの貿易で新たな富を蓄積しようという大名の思惑もあった。また、当時の仏教や神道の中に根源的原理を求める動向があって、一神論的な発想を受け入れる地盤が用意されていたということも無視できない。

しかし、ザビエルやその後継者の宣教師達と、日本の仏教僧との間に激しい論争が繰り返されるようになった。日本人は神による世界創造という観念をなかなか理解できず、またあくと地獄の存在に大きな疑問を持った。全知全能の神がどうして悪の存在を認めたのか。また神が永遠の地獄という罰を与えるのは、あまりにも残酷でないか、などと言うことが大きな疑問として提示されている。そうした問題を突き詰めていくと、最終的には、神の存在を認めるか、禅的な空=無に帰するか、というところが最大の相違点として浮かび上がってくる。

キリスト教の到来は、日本がはじめて西欧の文化に本格的に触れた衝撃的な異文化体験であった。それまでの日本は中国や朝鮮しか交流がなかったからである。仏教の伝来が大陸の先進文化の総合的な到来であったのと同様に、キリシタンの伝来は南蛮文化と呼ばれる西洋の文化の総合的な到来であった。
キリシタンは数十年という短い間に、このような新しい文化の衝撃と、その後に続く残酷な弾圧と禁欲のいうかつてない大きな痕跡を日本に残すことになった。

2、神仏儒体制の確立

●信長・秀吉の宗教改革
キリシタンの一向一揆など中世末に宗教勢力は肥大化し、政治を左右するだけの大きな力を持つようになった。その宗教勢力の掃討が近世の主権の確立の大きな課題となった。

「織田信長」・・比叡山延暦寺の焼き討ち、11年の抵抗を受けたが石山本願寺の勢力鎮圧・浄土宗と日蓮宗を対決させ日蓮宗を排斥
「豊臣秀吉」・・高野山を屈服させる、京都東山に大仏殿を建立し、各地の僧侶を集めて千年供養をすることで自分の権力を示す
最もやっかいだったのはキリシタンである。秀吉は1587年にバテレン追放例を出して禁教に踏み出した。この禁止令の中には日本を「神国」であると言う一文がある。

また秀吉は支配者としてはじめて自らを神として祀る事を計画し、死後豊国神社が創建された。このタイプはその後徳川家康が東照宮に祀られることにによって定着する。これはキリシタンを含めて中世後期以後の神観念の変容のひとつの結果であり、明治の天皇=アラヒトガミという観念にも関連する。

●幕末体制と仏教
徳川幕府の宗教政策は、信長・秀吉と継承されてきた世俗権力による宗教支配の完成形態ともいえる。仏教・神道に関する統制は1665年に「諸宗寺院ご法度」により完成され、もう一方でキリシタンは厳しく禁じられ、島原の乱の後1639年鎖国が完成された。その中で仏教には檀家の人々がキリスト教でないことを証明する義務を課された。

この頃になると、キリシタン禁制はもはや口実であり、寺院は檀家の戸籍を管理する末端の行政機関の役割を負わされるようになった。寺院はまた、本末制度により本山の支配を受け自由な活動を制約されることになった。しかしこれは単純に仏教の衰退とはいえない。むしろ幕府は仏教の助けを借りなければ、末端の民衆の支配は成り立たなかったのである。葬式仏教と言われるように、寺院は檀家の過去帳を保持し、墓地を管理し、年季法要という形で封建的な家の制度と密着に関連していった。

●神仏儒の動向
儒教は中国から輸入されたものでありながら、中国と大きく異なる日本化した形態に変じた。

江戸時代の仏教はしばしば堕落したと言われるが、心ある僧は戒律の復興や学問研究の進展にと努め、民衆に対する積極的な教化を図った。
「職分仏行説」・・それぞれの人がその士農工商の身分に応じて与えられた仕事をすることこそ仏道の実践にほかならない(士農工商という封建的身分をそのまま認め、それを強化する倫理であるという点で大きな問題を含む)
「心学の役割」・・宗教性を帯びた世俗倫理。心学は神仏儒に加えて老荘思想の影響を受け、所説折衷の立場から商人の役割を説いた。
「神仏習合と中心とする中性神道」
・東照宮信仰を支える一実神道・・徳川家康を転輪王にたとえ、その制族的性格を強調
・垂加神道・・天人合一の立場から神と人間の心の合一を説き、朱子学の道徳原理である「敬」の立場を神道に表した。
・儒教の影響を受けた神道家、吉川神道・・吉田神道の系統をうけ、宋学や陰陽五行説の影響下に独自の体系を開く
このようなさまざまな神道説が形成される中で、やがて国学から復古神道が生まれ、儒教にも仏教にも偏らない完全に独立した神道を形成しようとする。

3、神仏分離へむけて

●排仏論の動向
上述のように、江戸時代は全体として思想や宗教が世俗化し、生活の中に根ざしながら、倫理道徳を重視する方向が強くなった。そのよう方向から神仏儒の一致が求められたが、同時に他方で儒学や国学、神道の立場から仏教を排除しようとする動きが見られた。

儒者の批判は、主として仏教の出世間性に向けられた。そこから仏教における倫理性の欠如が攻撃対象となったのである。
為政者の立場からは、広大な土地を所有し、僧を抱えながら、生産の役に立たない仏教を批判し、仏教を統制しようとする動きもみられた。
神道と結びついたナショナリズムの立場からは、仏教の外来性を批判し、日本人の純粋な精神を歪めるものとして批判することもされた。
蘭学が普及すると、仏教の非科学性が批判された。


●国学と復古神道
仏教やナショナリズムの動向を反映して、神道と関係しながら、日本独自の道を学問的に解明しようとしたのが国学であった。本居宣長は源氏物語の研究から、それを教訓的に理屈で解釈する読み方を批判し、その根本の精神は「もののあはれ」にあり、自然のままの情趣を理屈を交えずに味わい感動することにこそ「やまとごごろ」の本質があると見た。

本居宣長自身は宗教的な神道説を批判する気はなかったが、その日本神話研究は平田篤胤(あつたね)によって引き継がれ、独自の神道説へと結実することになった。これを復古神道と言う。中世の神仏習合的な神道説を排し、純粋に日本古来の神々の世界を明らかにして、それに従って実践しようとするのである。

篤胤の説で特に注目されるのは死後の世界に対して明確な表現を示しえたことである。神道は明確な死後の世界を示さなかった。それが神道の弱点になっていたからであるが、篤胤が死後の世界を明確に示したことで、仏教に頼らずとも独自の宗教として自立できることになった。
しかし、もちろん古代への復古といっても、そんなことは出来ず、それどころか篤胤は西洋の天文学やキリスト教の影響さえ受けていた。しかし「仏教以前の純粋な神の道」というキャッチフレーズが受けて、広くナショナリズムに目覚めた人に受け入れられ、のちの尊皇攘夷の担い手となる。

●明治以後の見通し
明治新政府の宗教政策は、このような平田派の影響を受けることが大きく、神祗官を復興して律令体制に立ち直った。新政府はまた神仏分離令を出して神仏をj完全に分けることを目指した。その影響は未だに及んでいる。
しかしそもそも古代の律令体制をそのまま生かそうとしても、あまりにも時代錯誤であり、仏教を排除しようとしても現実に仏教は日本の社会の中に根付いている。

ところで幕末から明治のはじめには神道・仏教に捕らわれない新しい宗教が数々出現した。
「天理教」・・大和の庄屋の妻中山みきが突然神がかりして説いたもの。
「黒住教」「金光教」「大本教」など

第13章 中世の王権思想

1、中世王権の変容

●王法仏法相依
律令国家における天皇の権威は、中国皇帝に倣った(ならった)儒教的な天子像と、神祗信仰に依拠する天孫としての系譜とが融合して出来上がっている。さらに、これまた中国に倣って、仏法の守護神としての要素が加わる。仏法は何よりも国家の安泰のために存在するとみなす鎮護国家仏教の体制はこうして成立した。寺院と僧侶は、経済的にも国家から庇護を受けるとともに、法会などを通じて国家への全面的な奉仕が要求された。僧侶は官人であって、国が許可したものだけが出家することができ、私度僧が厳しく取り締まられた。

ところが、天皇と仏教の関係は律令制と共に変質していく。有力寺院が経済力を持つようになると、仏教は王様に対して対等の立場をとるようになった。この関係の思想的表現が王法仏法相依論である。天皇は仏教の外護者であるとともに、仏法の加護により地位を安泰ならしむものと考えられるようになる。

このような王権と仏教徒の相互依存関係を象徴する存在だったのが聖徳太子である。彼への信仰は奈良時代より始まり、そのうち彼が日本へ仏教をもたらした存在だとみなされるようになる。

●百王思想
11世紀から12世紀にかけて、日本は政治体制・社会制度はもとより、思想・宗教・文芸のあらゆる面において大きく変貌した。摂関政治から院政へ、最終的には平安末期における平氏政権の樹立と鎌倉幕府の成立を見、古代国家は中世国家へと移行する。

このような時代の劇的な変化は、終末思想を生み出した。王法仏法相依関係においては、仏教の衰退は王権の衰滅の意識を結びつく。このような中で起こってきたのが「百王思想」である。百王思想とは、天皇家の日本統治が百代にて終焉するという終末論である。百王において王朝が滅亡すると信じられた背景には、荘園制の進行や地方の混乱により、王朝国家の経済的基盤をなす国司支配が維持できなくなったことである。危機意識が末法思想と結びついた。

●天皇の宗教的権威
さりながら、中世において王法・仏法共にひたすら没落への道を歩いてきたわけではなく。
寺院勢力では、天台・真言・都などの伝統的寺院や新興勢力である禅宗は、朝廷や幕府と結びついて権門としての中世の国家秩序の一角を占め続けた。

それに対して天皇の地位は、政治的には全く無力なものとなり、経済的にも極度に困窮した。それでも最終的には廃絶することなく温存された。これは天皇のもつ宗教的性格によるものだといわれている。
言うまでもなく、古代以来天皇は、世俗的君主であるとともに、宗教的司祭者であった。その鍵であったのが、神国思想であり本地垂迹説である。

2、三国世界観と神国思想

●三国世界観と粟散辺土
中世日本人の世界認識を示すのが三国世界観である。三国とはインド・中国・日本を指す。これは仏法がインドに起こり、中国に渡り、日本に来たという歴史過程を空間化したものである。

「三国相承」の語は正統な仏教が、ほかならぬ最澄によって日本に伝えられたということを強調するために用いられた。また、三国というときの主眼は日本の位置づけであり、自国意識の一変形といえよう。

しかし、インドからみると日本はまるで辺境である。10世紀以降、このことが仏法が滅亡に向かいつつあるという末法意識と結びつき、粟散辺土観が起こった。
ただ、注意すべきは、この世界観が多分に観念的な産物であったことである。
<理由>
・日本にとってインドは実際には交渉がない、空想上の国であったこと
・朝鮮半島の諸国家が三国世界観では全く欠落していること

●神国思想の形成
三国世界観・粟散辺土観とともに中世の国土観の柱となったのが、神国思想である。日本を神国だとみなすこの考えは、古代の律令体制成立とともに発する。
「神国」とは、対外関係においてその優越性を主張するときの自尊呼称であり、
国内的に「神国」と名乗ることは平安前期まではほとんどなかった。平安前期において「神国」が使われたのは、外部との軋轢が生じたときのみであったが、遣唐使が廃止されたこともあり、次第に使われなくなってきた。

ところが10世紀後半以降、再び「神国」の語が見られるようになる。この場合は必ずしも対外的な部面でないところにも使われた。神国思想は、平時・有事とに関わらない自国認識となっていったのである。

●神国思想の変質
中世の神国思想を語る上で仏教の役割は欠かせない。当時の人々に、粟散辺土なるがゆえに神国なのだという認識もあった。仏は辺境劣悪なる地に住む日本の住民を救済するために、神という日本にふさわしい姿をとって現れたのであり、これを「機感相応の和光の方便」だというのである。
この、自国にとって否定的な感情こそが、神国思想の基礎になっているのである。

3、三種の神器と即位灌頂

●三種の神器とは
中世において王権は、新しい要素を取り込むことでその宗教的権威を差異活性化させた。

三種の神器(神鏡・神剣・曲玉(まがたま))は、天皇位の神聖性の象徴とされているが、この観念は平安期から中世にかけて徐々に形成されたものである。
三種神器を天皇位の象徴物とするこの根拠は、記紀神話の天孫降臨段にある。皇孫ニニギノミコトが地上に降臨する際に、天照大神が授与したとされるのである。

このようなじゅうような事柄であるにも関わらず、日本書紀本文にはその記載を欠いており、古事記・古事拾遺に見えるのみである。しかも、神器の数や呼称に関してもテキストによって違う。鏡や剣や玉が、古代首長の権威のシンボルであったことは確かなようだが、天皇位の象徴物として三種の神器を立てることは、奈良時代には確立していなかった。

三種の神器のうち、神鏡・宝剣の二つは伊勢・熱田両宮にあり、宮中にあるのはレプリカであるという。実物かレプリカかが問題にならなかったのは、神器は儀礼上必要な道具であるにせよ、「モノ」自体が帝位の正当性の根拠となるなどとは考えられていなかったことを示す。

●三種の神器観の中世的変容
三種の神器、特に神鏡の神聖化が始まるのは平安中期頃である。村上天皇の960年の内裏焼亡の折、神鏡のみが霊威を発して破損しなかったと信じられ、この頃から神鏡への特別な崇拝が始まった。その後何度か宮中の火災で焼失したにも関わらず言い伝えは残った。

神鏡への崇敬の進展は宮中における天照大神信仰の高まりと結びついたものであった。天皇家にとって天照大神は祖先神だったから、天皇と天照大神との関係は「家」意識の形成によって、より強化された。

しかし、三種神器が一組のものとされ、強く意識され、王権の正当性の根拠となったのは平安末期である。壇ノ浦の平家滅亡により、神鏡と曲玉は帰還するも、宝剣は水没したまま帰らなかった。このことは、そのままお受け滅亡の予感を証拠だてるものと考えられた。

だがかえって、天皇の神聖性の具体的象徴物としての神器の重要性が、多く人々に意識されるようになった。鎌倉期に入ると、三種の神器は天皇位と不可分のものであるという理解が広まる。このように、院政期に確立した三種神器への認識は、以後も衰えることなく継承され続けたのである。それをめぐって紡ぎだされた諸言説は、王権の神聖性の奥深さに至らんとする営みにほかならない。

●即位灌頂
天皇権威の仏教化を象徴するのが即位灌頂である。即位灌頂というのは、即位式の際、新帝が密教の灌頂作法のように印を結び真言を唱えながら高御座に登壇する作法を言う。即位灌頂が代々の天皇に実修されるようになるのは、鎌倉中期のことである。即位灌頂の印明の由緒には、東密(真言密教)・天台双方とも違う由緒を伝える。

第12章 中世の神話叙述

1、「日本書紀」の中世的展開

●日本記講筳(にほんきこうえん)
平安時代、宮中で日本書紀の講演が定期的に開催された。これを日本記講筳と言う。講師を博士・助手を尚復(復唱するもの)といい、参加者は大臣・大納言以下の廷臣で、時として天皇も臨席した。日本書紀は大作なので2、3年以上かけられた。

日本記講筳の当初の目標は「日本書紀」の訓読であった。正しい読みを先師の説や今案を比較して確定していくものである。なぜこんなことをしたかというと、平安時代の人々は日本書紀の背後に口承によって伝えられた「ふるごと」がそのまま張り付いていると信じていたからである。
しかし実際には内容的にも新しい律令国家の理念に沿って作りだされ、必ずしも過去の連綿と言うわけではない。

●「日本書紀」の復興
十世紀の中葉頃まで保持された日本記講筳の伝統は、その後途絶えてしまう。これ以来日本書紀への関心は薄れ、次第に読まれなくなった。この状況が変化するのは12世紀で、注目したのは歌学者だった。和歌の起源を問うことは、日本の起源を問うことに他ならず、そのときに彼らは日本の始原に関わるテキストとして日本書紀を再発見したのである。

中世に書かれた日本記の目録を見てみると、冒頭に日本書紀が挙げられ、以下に神道書が並んでいることが多い。つまり中世の認識としては、これら日本記の頂点に立つ「聖典」として日本書紀は位置づけられていた。

●日本記注釈
日本書紀には中世ではさまざまな注釈書が著された。
・藤原道憲「日本紀抄」
・卜部(うらべ)兼文「釈 日本記」・・後に日本記の家としての地位を確立する
・僧侶
これらの注釈書は、中世神道の所説が解釈に大々的に導入されているのが特徴であり、多分に秘説相承の趣を有する。

2、中世神話の世界

●中世神話と中世日本紀
中世神話(中世日本紀)はさまざまな形式で現れた。ある場合は神道書・寺院縁起など独立したテキストとして、あるいは注釈書の一説として、またある場合は文芸柵y品の詞章の中に見出すことができる。

中世において注釈という営みは、独特な意味を持っている。学問・知識と言うものが基本的に開かれたものでなかった中世において、その継承は常に排他的であった。特に密教や歌学などは、法流や道統を回路とて独占的に知識が継承される傾向が強かった。しかもこれらは分裂し、複数の流派が立する状況があった。
このような中にあって、他流・他派との差異性・優位性が示されるのは、知識の中核にあるテキストより、むしろそれに付された注釈であった。

●中世神話の諸相
中世神話には、宇宙・世界はもとより、国土・土地・国家・王権・家・氏族・寺院・寺社・職・芸能なおどの起源に関わるさまざまな説話がある。

「天照大神と天児屋根命との契約譚」・・神代によって天照大神が天児屋根命の子孫を代々自分の子孫(天皇家)の輔弼(ほひつ)の神とする幽契を結び、それによって藤原氏は代々天皇の摂政・関白になるのだという話
この話は藤原家が衰退が意識されたころ出しているので、現在状況を「神話化」によって食い止めようとするかごとくに見える。

「土地由来話」・・日本国はもとインドの山の一部が流れてできたもの
このように土地の聖性の根拠をインドに求めたのは、中世の本地垂迹説にほかならない。インド=本地、日本=垂迹の地という図式である。

「熊野の本地」・・無実の罪に陥れられた天竺の女官が、妊娠したまま首を切られ、首のない母から出生した子は、その後父と出会い、蘇生した母と共に日本に渡来、熊野の神々となる

「風姿花伝」・・猿楽の起源として、聖徳太子が始めさせたものだという話

なぜこのようにおびただしい神話が生み出されたのであろうか。それは、絶対的権力が存在することなく諸権門が存在した中世には、国家・王権以下諸権門・家門・流派・諸職・諸芸にいたるまで、その歴史を裏付けるための神話を必要としたからである。テリトリーを守り、その優位性を保持するためには、その正当性を示す神話はなくてはならぬものであったからである。

3、第六天魔王神話(代表的な中世神話のひとつ)

●大日本国説
「大日印文」とは、神話では大日如来のボン字を示す。大日如来の象徴が、日本の下に沈んでいるというイメージである。この神話イメージの背景にあるのは、日本という国号を大日如来と関連付ける「大日本国」の説である。これは中世時代の国号論のひとつでありまた、密教化された神国思想である。

●神童由来譚としての第六天魔王神話
天照大神が魔王より神じを請け負いえたという話
神じ・・・天皇の地位の象徴である三種の神器のひとつ「勾玉」のこと。
大日如来は衆生救済のために魔王のところに出向き神じを賜ったという話が載っている。神じは魔王の手形であったり誓約書だったりしている。

王権を根拠付ける神じが第六天魔王に由来すること、これは言い換えれば、天皇の日本国王としての正当性は、魔王によって保証されていることである。このような認識は、魔王のイメージに、単なる障穢の悪神以上の性格が付記されていることを示す。
これは日本国が魔王の国から大日如来の国になったことを証明している。

魔王の領国たる日本は、日本を世界の辺境であるという辺土観を、また大日本国説や神国思想のような肯定的自国意識をそれぞれ象徴するものである。第六天魔王神話のストーリーは、中世における相反する自国意識の二面性を投影している。

第11章 中世神道説と中世の思想・文化

1、鎌倉仏教と中世神道

●浄土系諸宗派と神祗
鎌倉期に現れた新しい仏教の担い手達の神祗及び神仏習合に対する態度は、さまざまだった。
・肯定派・・高弁・日蓮・貞慶・叡尊
・否定派・・法然・親鸞・道元

法然・親鸞は、選択本願・専修念仏を唱え、称名念仏以外の仏教修行を排斥した。そのため神祗信仰が「余行」として否定されることになった。
法然地震は神々を拝むこと容認し、親鸞も仏法を守護する神の価値を認める立場にあり、門徒に向けて神々を侮ることを戒めている。しかし、彼らにとって神祗信仰は所詮厭離すべき穢土の営みであった。無用な軋轢を避けるために容認したに過ぎない。

しかし、法然や親鸞を継いだものたちは徐々に神祗信仰を受け入れるようになっていった。親鸞の孫の子存覚は神というものを「仏菩薩の垂迹なる神」「本地を持たない生霊・死者・畜生」に分け、権社神の信仰を認め、実社神の存在を否定した。
神を権と実に分けることは、仏教者一般に共通の神観念である。つまり真宗としても神祗信仰と妥協せざるを得なかった。
また、浄土宗は時代の発展と共に神道説の導入に積極的になった。

●禅宗と中世神道
・日本臨済宗は栄西が密禅兼修の僧だったことより神仏習合信仰を受け入れていた。
・道元に始まる日本曹洞宗は、道元地震が護法善神としての神祗信仰の存在は認めつつも、積極的に接近することはなかった。しかし弟子たちは神祗信仰へと接近してゆく

臨済宗に比べて後発の曹洞宗が教線を拡大していくのは地方であった。曹洞宗が地方の庶民層に浸透していくには、密教との習合と神祗信仰の両者が必要だったからである。臨済宗では地方に拠点を置く流派以外は、次第に神祗信仰を積極的に行おうとする姿勢が見えなくなってしまう

●法華神道
日蓮宗は宗祖の日蓮自身から神祗との接近に積極的であった。彼は他宗への痛烈な批判を行うと同時に、正法を守る神の中心に天照大神・八幡大菩薩をおいた。
日蓮没後には、三十番神信仰が取り入れられ、日蓮宗風の護法善神思想が確立する。これは三十の諸神が一ヶ月三十日の間、交代で法華経護持に当たるという信仰である。

1497年、吉田兼倶は論争を仕掛け、三十番神の神号を日蓮に伝授したのは、兼倶の遠縁であると主張した。日蓮創始といいながら、その全く同じものが天台宗にあることの矛盾をつかれたのである。以降日蓮教団内ではこれを法華神道と言う。

2、三教一致思想

●日本における三教一致思想の受容
三教一致、諸教一致の思想は、大陸にて起こり、主に禅家を通じて日本に移入され、中世神道説を進展させる大きな原動力となった。
中国における儒仏道一致の思想は六朝時代に起こった。この思想は来朝僧により日本にもたらされた。

●中世神道の三教一致思想
伊勢神道はその教理化にあたって、仏教思想・陰陽五行説・道化思想などを積極的に摂取している。伊勢神道は両部神道のもとに成立したのであるが、両部神道との差異を示すために、道化思想に特に注目したといえる。
両部神道は言うまでも泣く、神仏の同一ないしは本迹関係を前提とした思想であるが、伊勢神道の書物では神道を根、儒教を枝葉、仏教を果実として三教の関係を説いている。
ただ、単に三共の一致を説くのではなく、神道を根元にすることによって、日本中心主義的に再構成されている。

●中世禅林と吉田神道
神道説における諸教融合の思想は、禅林の三教一致思想により、より高度な学問的保証を得て、上層知識人への神道説への参入を促した。その中で登場したのが吉田兼倶(よしだかねとも)である。
兼倶は「神道」を万物の根源と定義し、諸教もそれに包摂されるものと説いた。さらに彼は「神道」を内面化し、心と神との同一を主張した。

このような神儒仏一致思想を前提として、中世後期より近世において共有された意識として天道思想がある。古代以来の天皇を中心とする思想は、中世以降に政権を掌握した武家にとっては、その統治権を正当化するものではなかった。そのため彼らは、儒教的な天の思想の影響を受けた「天下」の概念を持って、合理化を図った。この天下思想を個人の倫理・道徳的側面から保証したのが「天道」の概念である。

3、中世文芸と中世神道

●狂言綺語観と神
文芸的営みが、仏道と相即関係にあるという考え方が起こったのは、平安中期のことである。和歌や詩文という人の心を弄ぶ行為は、仏法が戒める妄語・綺語であった。
しかし浄土信仰や法華経の影響で、詩歌をもって仏法を唱えるならよいと言うことになり、次第に文事そのものが仏法と同一だという考えに代わってきた。これを狂言綺語観という。

神祗信仰と文芸のとの関わりも、この狂言綺語観と深い関係を持っている。本地垂迹的世界において、神とは仏菩薩が俗なる姿をしたものである。これはまさに文芸と仏教の関係に対応している。

●中世神道の文芸への影響
平安中期以降、律令制の弛緩により国家の庇護を期待できなくなった寺社は、個々にその本尊や神体の霊験を宣伝することにより、参拝を広め、浄財を集める傾向が出てきた。それを担ったのが勧進聖(かんじんひじり)・御師(おんし)・山伏といったものたちである。これらの多くは和光同塵をモチーフとしている。

●古今注・伊勢注と中世神道
ただ以上の多くは、中世神道説の説話的部分を摂取したものであり、教理を取り込んだものは「神道集」を除いてあまりない。それに比べて、神道説の教理教説を大幅に取り入れているのが「古今和歌集」・「伊勢物語」の注釈書である。
これら注釈書は歌学の家、流派の成立とその伝授の過程で作られたものであって、一種の秘説として相承された。

なかでもこの傾向が一番著しかったのは御子左家為家(みこひだりけためいえ)の子為顕(ためあき)より発すると称する為顕流である。
このうち「玉伝深秘書」では伊勢物語の「伊・勢」の二字の意義を論じて、伊は女、勢は男である、伊は「おさむ」と読み七百余尊(胎蔵界の諸尊)を納める意、勢は「たまねく」と読み、金剛界の種を持って胎蔵界を孕ます意味である、伊勢二字とはこの胎金両部に他ならない、物語とは実相のことであって、迷(男女)・悟(両部)とともに実相であることを知らせんがために、「伊勢物語」と言うのである、伊勢物語で煩悩愛欲を説くのも、万物がみな本来仏であるという深義をみなに悟らせんがためだ。。と狂言綺語観の極北ともいえる議論を展開する。
さらに「伊勢物語髄脳」という「玉伝深秘書」の影響を受けた伊勢物語の注釈書は、ほぼ全編が「伊・勢」の二文字の説明に費やされている。

中世の古今注・伊勢注は、中世の神道説形成の大きな柱となった。古今注・伊勢注と神道説を燃す美つけているのは性愛と生殖をめぐる所説である。つまり、本来教理的基礎を持たない神道にとって、男女和合という具体的なイメージは、その数理化に不可欠な要素であったのである。ただ、このような傾向は後に批判の対象となり、次第に両部神道は力を失っていった

第10章 中世神道説の形成

1、両部神道

●伊勢神宮と仏教
本地垂迹説によって新たな段階に入った神仏習合信仰は、院政・鎌倉期に至り、中世神道説を生み出した。かかる教説化の発火点となったのが、天皇家の始祖神たる天照大神を祀る伊勢神宮である。

天皇家の始祖神にはほかに八幡神があるが、両者は神仏関係において、著しい対照を成す。八幡神はまさに神仏習合を体現する存在だった。それに対して伊勢神宮は仏教を忌避する傾向があった。
ただ、ここで注意すべきは、新宮の仏教忌避は後世の排仏思想とは異なり、仏教忌避はあくまでも仏事と神事の混沌を避けるためにすぎなかった。

したがって、伊勢神宮においても、当然のごとく本地垂迹説の影響が及ぶことになる。
第一段階・・大神の本地を観世音菩薩とする信仰が現れる
第二段階・・大日如来との習合(大日如来と天照大神が同体であることを示す)を説き、仏寺建立がまさに神慮にかなうものを示すとされ、東大寺が建立された

ここにおいて伊勢神宮という神祇の聖地と東大寺という日本仏教の中心と重なり合う。さらに行基(668~749)が新宮に参拝して東大寺建立の夢告を得たという説も加わった。このような中から伊勢神宮参拝の気運が起こってくる。これ以降伊勢神宮は中世を通じて日本仏教の聖地のひとつであり続けることになった。

一方で、前述のごとく神宮には仏教忌避の伝統があり、僧侶は社殿に近づくことがかなわず、これが神道書という形式の伝書群を生み出す要因となる。

●両部神道の発生
そして登場したのが密教的神道、すなわち両部神道である。しかしそれはきわめて秘説性の濃いものであって、意図的に難解さを装うものだったのも事実である。そのため、後世に人には訳のわからない付会説にしか見えなくなってしまった。

両部神道書の特徴は、それらが仮託書の形式をとる事である。すなわちその古さを装うことによって権威化を図ったのである。

鎌倉中期以降に現れる書は、空海に仮託されるものが圧倒的に多くなる。その理由は次節で述べる真言宗諸派の伊勢神宮の進出が関係していた。

●真言宗諸派流の神宮進出
鎌倉中期以降の蒙古襲来を契機として、真言宗系諸流派が神宮へ本格的に進出してきた。その代表的存在が西大寺流などであり、これを拠点とした諸寺院が多くの新当初の政策と相承の現場となった。

2、伊勢神宮と神道諸流派

●伊勢神宮の成立
両部神道の成立は、新宮側にも大きな影響を与えることになった。僧侶の新宮への接近に当初肯定的な態度を示したのは内宮荒木田氏であった。それに対し外宮の度会氏はその動きを忌避する傾向がみられた。

ところが、この度会氏こそが両部神道の影響の下に、新たなる神道書の述作と教説を作り上げた。それは外宮は内宮に奉仕する神であって望ましい状態ではなかったからである。

当然のごとく対立・抗争が起こった。度会氏が外宮の地位を内宮と平等、さらには優越する存在とせんとする毛一行はこうして醸成されて行った。結果的にそれが一連の伊勢神道書を生み出すことになる。
これらの内容は、縁起の社殿や行事の由来を説きながら、両部神道説の影響を受けて、内外両宮を日輪・月輪とし同格を示そうとしたのである。

●寺院における神道研究
神宮周辺の寺院における諸流の動きは、神宮の外へも広がっていった。

●神道諸流の展開
中世寺院における神道享受の広がりの過程で、これらの知識を専門に扱う諸流派が現れてくる。

3、山王神道と吉田神道

●山王神道
比叡山の地主神、日吉山王への信仰は、日本天台宗の開祖最澄が同山に延暦寺を開創してより、天台宗の発展とともに成長してきた。
今日、山王神道と呼ばれる教説の存在が確認されるのは鎌倉後期以降のことで、その中心著作は義源によって編集されたものである。

●吉田神道
旧来の伊勢・両部神道説を継承・発展させ、近世神道説へと架橋したのが吉田神道である。その創設者吉田兼倶は吉田山上に奉斎場なるものを建立し、そこに伊勢以下全国の諸神を勧請して、これぞ神武天皇以来の全国神社の根元であると称した。

吉田神道ではさまざまな修法が行われる。中心が神道護摩・宗源行事・十八神行事の三壇行事と呼ばれるものである。三壇行事やその他の伝授作法は密教ないし両部神道の影響が著しく、当時流布していた諸思想を混交させて作り上げたものであった。これは後に大きな批判の的となるが、神道についてはじめて体系的教理を確立した点においては、近世神道説の始原と言うべき存在であった。

第9章 鎌倉仏教の世界

1.中世仏教の形成

●顕密仏教の時代
中世の仏教と言うと法然・親鸞・道元・日蓮などが浮かぶが、今日の研究によると、
当時彼らの勢力は小さいもので、鎌倉時代にはむしろ異端派とも言うべき少数勢力であった。では、何が主流を占めていたかと言うと、いわゆる旧仏教の諸派で顕教と密教(顕密仏教)である。これらは政治的・経済的にも大きな力を持っていた。
顕密仏教の形成はかなり古く、九世紀ごろに始まるとされている。

●教学の信仰と浄土教
思想的な発展を中心に見ると、平安初期と中期のあいだにかなり大きな断絶が有る。
・天台宗・・9世紀後半以降、約半世紀活動が停滞
・真言宗・・空海以降高野山は衰退し、十世紀半ばになって、「空海が禅に入ったまま弥勒仏の出現を待っているという説を宣伝に使うようになって復興の兆しが見えるようになった。

十世紀半ばにおける教学の復興を象徴するのは、応和の論争である。
これは村上天皇の前で天台宗の源信と南都の代表が法華経について論争したものである。源信が出した本により、平安中・後期によって浄土宗を取り立てて特別視したわけでもないが、体系化され、これが広く人々に読まれた。

源信よりちょっと前、空也が念仏を始めた。これは遺棄された遺骸の埋葬の鎮魂などを意図するもので、密教的な呪術性を帯びたものであった。

●本覚思想
院政期に大きく進展した思想に本覚思想がある。本覚思想とはありのままの現実を肯定する思想で、最も日本化した仏教思想として近年注目されている。
もともと本覚は内在的原理、または目標としての悟りであり、現実をそのまま肯定するものではなかった。しかしそう考えると、もうそれ以上修行して悟りを開く必要がなくなる。本覚思想が修行不要論に陥るとして批判されるのはそのためである。
しかし、それゆえにありのままの自然を重んじる中性日本の文化に適合した。

2、鎌倉仏教の諸相

●新たな実践の時代
院政期の仏教は複合的な信仰が頂点に達し、あわせて儀礼も集大成される。
しかしあまりにも複雑で実用的ではないところから、今度はより単純化し、実践的な仏教が展開するようになる。これが鎌倉仏教の特徴である。

●法然教団の活動
法然教団は従来の浄土教の持っている複雑な儀礼側面や教義面の弱さを克服して、何人をも阿弥陀仏は平等に救済するという説を唱えた。この説は人々の共感を呼び、多くの信者が集まった。
念仏さえ唱えれば救われるとされ、どのような悪事もし放題という主張をするものまで現れた。

●法然の批判者たち
法然の批判者は法然教団の念仏者が邪義を広め、秩序を乱していると批判し、院の権力による念仏停止を求めた。
・明恵・・菩提心(悟りを求める心)がなくとも念仏さえ唱えればいいと言う法然の主張は邪義である
・日蓮・・法華経が仏教の最高であり、念仏を主張する法然は間違っている

●戒律と禅
法然の影響は賛同者・批判者の療法に及び膨大なものであった。とりわけ戒律は大きな焦点になった。法然は戒律否定の傾向にあり、公然と妻帯した親鸞もその流れに立つ。浄土念仏とともに鎌倉時代の新しい仏教として禅がある。

3、鎌倉仏教とその周辺

●仏教と国家
鎌倉時代は仏教と神祇の関係が正面から問われた時代である。新仏教の祖師たちは世俗の国家権力などものともせずに自らの宗教信念を貫いた。法然や親鸞は流刑にも関わらずその信念を曲げることはなく、日蓮も迫害をもろともせずに法華経の行者としての使命にまい進した。

こうした中で当時の主流をなす仏教は政治権力との共存を図った。王法と仏教は相互依存的な関係にあるものとされ、車の車輪にたとえられる。これを王法・仏法の相依論(そうえろん)と言う。

もっとも両者は同じれべるではない。寺院は広大な荘園による経済力や武力も持ちいえたが、それより仏の力をバックにした呪術的な力によって恐れられた。単なる相依存というより、巨大な力を及ぼしていた。

●仏教と神々
世俗的な国家の権威との関係とともに、土着の神祇との関係も大きな問題となった。仏教の絶対的立場を主張することは仏教だけで充分であることを意味する。
しかし、これは筋の通ったものではあるが、日本の社会では現実的ではなく、また実際に仏教者も神祇を無視することはしなかった。それどころか仏教者の中には熱心な神祇信仰者もいた。

●歴史意識の展開
ところで慈円は王法と仏法の両方に関わる立場から、両者を結びつける歴史論「愚管抄」を書いた。愚管抄は承久の乱の直前(1220年)に書かれ、武士と摂関家が協力し、神仏の加護のもとに皇統の継続が成り立つという立場から、後鳥羽上皇による倒幕計画を批判する意図を持っていた。

このように慈円の歴史観は、下降する時代の中で、神仏の加護を仰ぎ、武士と摂関家が協力して皇統を盛り立てる必要があるという危機的な時代認識によるものであった。

本書は「大日本国は神国なり」という有名な文句で始まっている。わが国のみ正しく皇統が伝えられてきたことを述べ、わが国の優越性を見ている。また慈円は仏教にも詳しかったはずなのに、仏教はあくまでも天皇によって用いられるべき政治道具の一つと記している。

第8章 神仏習合の形成

1、神仏習合と神仏隔離

●日本人の宗教行動
神道の神社にも仏教の寺院芋参拝するという日本人の宗教形態はシンクレティズムとも呼ばれ、しばしば宗教的に低いレベルのように考えられて来た。日本人自身も、、自らそのような信仰形態を後ろめたく思っていいる所が有る。

しかし、宗教というと特定の宗教を深く信じていなければならないと言う考えは、欧米から入ってきた宗教観、とりわけキリスト教のプロテスタント系を模範とした宗教観である。
日本人は無節操に神社や寺院に行くわけではない。
生命に関わる慶事は神社が管轄し、凶事の際は寺院が担当するという分担がなされている。
秩序を持って相互に補完しあっているといえる。

●近代的宗教の確立
神道と仏教が異なる宗教としてはっきり分けられたのは、明治の初め1868年の神仏分離令である。政府は1872年に専門の宗教家を教導職として認定し、教部省を設立し、宗教を国家の力で統合しようとした。
しかし、これを強行に反対した浄土真宗・西本願寺派の島地黙雷らは、教部省を廃止に追い込んだ。こうして国家による宗教の強制は失敗し、宗教の自由が確立された。

しかしそこには大きな問題が残った。
1、個人の宗教とはいいつつ、実質的には仏教は家の宗教であり続けたが、新しい宗教の規定ではその面を超えることが出来なかった
2、神道との関係を簡単に切り離すことが出来なかった

ここで島地らは「仏教=宗教」「神道=非宗教」という立場を取ったが、これが後に「神道は宗教ではないのだから国家が介入しても構わない」という強制を許すことになる。

●神仏習合と神仏隔離
神仏習合というとき、注意が必要である。
1、単純に神道と仏教をいうふたつの独立した宗教の関係とはいえない
<理由>
神道の体系は仏教伝来以来、仏教の影響をとても受けている
仏教はインドから伝来したものであるが、そのままの形で日本に入ってきたわけではない
2、神仏習合といっても、完全に融合したわけではない

2、神仏習合の形成

●神仏習合の諸形態
1、神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする考え方
2、神が仏教を守護するという考え方
3、仏教の影響下に新しい神が考えられるという場合
4、神は実は仏が救済のために姿を変えて現れたものだという考え方

●神々の救済(第一の形態)
日本は神を仏教の天の範疇に位置づけたところに発する。
六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)の最高位にある天は、まだ輪廻の最中であり解脱に達していない。苦しむ神を仏が救う
仏教側の利点・・在来の神を支配下に置くことで勢力が伸ばせる
神道側の利点・・仏教の保護を受けることで地位を安定させる

●護法神(第二の形態)
東大寺の大仏建立の時に九州の宇佐八幡がその大事業を援護するために来たと言われるような行い。
仏教側の利点・・土着神の援助を受けることで日本の社会に抵抗なく受け入れられるようになった。
神道側・・中央の勢力と結びついた仏教の力を借りて勢力を伸ばすことが出きる

●新しい神々(第三の形態)
怨霊・・例「北野天満宮の菅原道真」祀られることで国家を守護する善神となる

●本地垂述(ほんじすいじゃく)(第四の形態)
インドに生まれ80歳で死んだ歴史上の仏陀は、神の借りの姿であるという考え

3、複合的信仰の展開

●宗教と陰陽道
平安時代の初めの皇室行事も、国家的な祭祀というより天皇の私的な祭祀という性質を持つようになり、あわせて貴族の個人や家を中心とした祈祷が盛んに行われるようになった。このような背景の中で阿倍清明のような伝説の陰陽師が現れ、物忌み・方違えはケガレの観念の肥大とともに貴族の生活の中で日常化していく。ケガレはこの時代から非常に厳しく戒められるようになり、女性差別を助長するようになった。

●山伏信仰
山岳信仰もこのころますます発展した

●諸信仰の複合
死に関する儀礼は仏教の独占するところとなり、現世利益的な面は仏教・神祇信仰・陰陽道があわせ用いられる。現世利益のうち、子孫繁栄や立身出世は神祇に祈り、厄災の除去などには陰陽道が用いられ、仏教はそのいずれにも関係した。
こうしたさまざまな信仰の根本にあるのは「現世安泰・後世善処」である。

●末法思想
末法というのは、仏滅後、次第に仏法が衰えていく様を、正法・像法・末法の賛辞に分ける一種の下降史観である。これは大臣が自らの存在を宣伝するために伝えたものと考えられる。

末法説と関係するものとして辺土説がある。これは、日本を釈迦の生国インドから遠く離れた辺土と位置づける世界観である。末法の辺土には、仏がそのまま現れて人々を救うことが出来ないから、そこで日本の神として垂述することが必要となる。神でないと救えないから日本は神国と言われるのであり、神国説は元々日本の優位をいうものではない。日本は神によって守護された特別な国であるというのは間違い。



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Mikami Kako

Author:Mikami Kako

おことわり

保育士・図書館司書に関しては、旧システムによるものなので、現在のもの科目編成や内容にずれがあります。放大についても閉講科目が含まれます

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