Zedle Smith, On Beauty(3)

p.30
モンティは、首を横に振って微笑んだ。ミズ・ベルセィ(キキ)・・あなたは、その生徒がアメリカ陸軍に入隊しないようにするために、資格のない生徒達を、私のクラスに入れるべきだというのですか?

キキと呼んでね・・そういう風に言いたいわけではないんですけどね、でも、この自己嫌悪ときたら・・。私がコンドリーザ(政治家)やコーリン(政治家)を見ると、まったく!気分が悪くなるわ!・・私たちを残りの人から引き離そうとする猛烈な力があることがよくわかるんです。・・まるで「自分たちは機会をいただきました。さよなら」と言いたいかのようにみえる。
黒人の中に蔓延しているのは、保守派の黒人が持ってる、あの嫌悪感よ。こういって、あなたを怒らせたのなら申し訳ないけど、でもそれも問題の一部ではない?もはや、政治の話をしているのでさえないわ。これは、これは、ある種の心理状態の話なのよ。

p31
彼らは、ウエリントンの丘の頂上につき、様々な教会の正午の鐘を聴いた。足元をみると、あたりは雪のベッドに包み込まれたようにとても美しく、そこにはアメリカの町の裕福で教育水準の高い街が横たわっていた。

(モンティのセリフ)キキ、もしあなた達自由主義者について私が唯一理解できることがあるとすれば、それはあなた方がいかにおとぎ話を語ってもらうのが好きかということです。あなたは創世神話に文句を言ったりもするけれども、あなた自身もいくつも同じような話をお持ちですよね。自由主義者は、保守派の人々が自分たちと同じぐらいこうだと信じている倫理的な信念を動機として、保守派の人々が行動していることを決して信じてくれない。あなたたち(保守派)は深い自己嫌悪や、なんらかの欠点を動機として行動しているということを選ぶのです。でもあなた、それは最も気の休まるおとぎ話ですよ。(自由主義者は自分の信じたいことを信じているおめでたい人たちである)

p.32
ゼドル・スミスは、彼女の本に「On Beauty」と記載させた。そしてそれは、1910年のハワードエンドである。これは、スミスの本の中の構造からみることができ、それはフォスター自身の仕事と結びつけることができる。
しかし、スミスが書いたことは、それ自身の権利がある権威あるイギリス文芸のためのレスポンスを含んでいた。
英国の権威とは、それとウイストンの基準は何かという言葉(特別な英国の視点)という、高いレベルの言語になり、深く達成される。

このような用語は、近年疑問視される。なぜならそれは除外された他の文化から多くの言語を考慮されないからである。そしてそれは、ウエストンの起源ではない。しかし、英国帝国主義と植民地の長い終焉の間で規準は、特に高い注意が払われた。多くの植民地化された国々の中で、英語を話す学生は、正当に英国書物と詩を排他的に教えられた。これらは、しばしば植民地のリーダーに圧力をかけ、文学の中の世界的なテーマのアイデンティティにできた。

しかし、ヨーロッパ人のセッティングと関心事は、そう多くはなかった。このような文学を読めとは言っていないことは、社会ではなくむしろ個人に価値がないとみなしており、むしろ、

p.33
地方のテキストを排除し、正当なテキストのみを議論することは、これらのテキストにブライオリティを与えることであり、エリート意識を促進し、他の国々より本来備わった価値もっていることとしていくつかのヨーロッパの中で位置づけられるかもしれない。

生徒なテキストを読むだけのことは、世界的観点から利点をもつという意味があり、ウインストン文化と芸術はウインストンカルチャー以外の文化と芸術にほとんど関わりをもたない。

伝記上、ザドル・スミスは、ヨーロッパとそうでない国のアイデアから影響を受けた。おそらく彼女の働くクラスで反射され、植民地独立後とエリート教育がキャラクターを作り、イデオロギーの立場からの用語の分類を簡単にしないのであろう。

これは部分的なものである。なぜなら、常に良質の文学は、作者のアイデアを反映しているから。しかし、それはまた、植民地独立後と文化交錯の中で著者は時々、子どもの時に躾けられた社会的な文化との間で精神的な葛藤が出現することがある。

スミスや他の者のように彼女が書いた、オンビューティのキャラクターは、例えば、彼女の中で一致した教養と保守的思想の合致で書かれていて、彼女自身の生活と彼女の多文化的な背景をもっている。
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Zedle Smith, On Beauty(2)

p.21
「オポチュニティ(機会)というものは権利である」と、モンティは周囲に聴こえるようにはっきりと話した。「しかしそれは贈り物ではない。権利は勝ち取るもの。そして、機会というものは、しかるべき道筋を経て手に入れるべきだ。そうでなければ、その制度は根本的に価値が下がってしまう」

彼らのまえにある木が、枝から棚一段分の雪を通りに落とした。モンティは、キキが通るのをとめようとして、彼女を守るようと腕を伸ばした。モンティは2列積み上げられている細い水の流れを指差し、2人はこれに沿って歩き、広いところに出たが、結局消防署のところで公道に戻った。

「でも・・」キキは抗議した。「そもそも、この問題の本質は、ここ、アメリカでは、ヨーロッパでは事情が違うことは認めるけれども、でも、ここでは、等しく与えられるべき権利が奪われたなごりで、著しく阻害されているというか、滞っているというか、どう表現してもいいんだけど、まったくそういう状態であって・・

p.22
それを正すためには、何らかの手当や特権や手立てが必要ということではないの?釣り合いを戻すことが大事なの。機会均等が長いことバランスが取れていないから」私の母が住んでいた1973年には、人種分離バスを見ることができた。それらは真実である。つい最近のことだ」

「犠牲者の文化を助長する限り」モンティは話したけれども、その中には、自分自身の中に平穏したリズムをもっていた。なぜなら、こういう会話に慣れているから。そして、「えっと・・」キキは言った。柵を握って大きな水たまりをドサりと飛びながら「わからないけど・・私たちは犠牲者を作り続けるのです。そして、成績不良の悪循環が続く。何か臭うのよ。・・私たちが黒人が与えられた権利について反論する場にさんかする人々を見た時に自己嫌悪に陥る時のように。

p23
私はこう思う・・私たちにはこの時点で議論は必要ない。戦争が起きてるのよ。地球の反対側で、黒人の子どもたちが戦場の最前線で死んでいってるのよ。・・なぜ黒人の子どもが、前線に入っているのかと言えば、彼らは大学は自分たちに何も与えてくれない(大学から得るものはない)。そう思うから、軍隊に入るんだ。これがこの国の軍隊だ。

p.24
ザドル・スミスは英国の小説家で、ブリテンは植民地化された他の国々よりもより植民地として正常に関連づけられる。それはおそらく、植民地独立後に書かれた書物として、彼女の代表としての力をもっているだろう。植民地独立後に書かれた書物を検査するとき、テキストそのものに表された植民地独立後の関係を理解するために表された詳細がとても重要であることがある。

スミスはロンドンで生まれたけれども、彼の形成期は、植民地と植民地独立後の母の伝統も鋭く受けた。ジャマイカから他国に移住したり、英国の村の田舎町、1969年のブリテンまで。それからだいぶたって、彼女は確かに文化交錯作家となり、それらの側面から問題を調査した。

このシリーズのはじめは、とても重要です。なぜなら、とても一般的な植民地独立後と文化交錯の文学だからです。その区切りは、背景への願いといくつかの「家族」に属し、誰もが拒絶されたり、受け入れられなかったと感じる根本だからである。ハワードの性格は、例えば、彼が何かを基本としていたとしても、何かがしっかりとした変化を遂げたことを覚えている。

p.25
植民地独立後の概念は・・そしてますますグローバル化され、それは国家を超えた・・一度も変化せずに永続する。我々の多くは、「故郷」について曖昧であるけれど、このような想いは、移り変わりの一定の状態である。移り変わりは、多文化社会に存在するより一層明白なことであり、またそれらは混成の遺産からきている。

ハワード、誰が見られた背景について答えをだしているのか、彼自身が決めることができる。努力して属そうとし、属するために必要でないものでさえそうである。

これらの矛盾する理由は、このように文化が交錯する性格をもつこと(おそらく、この著者が作ったキャラクターだと思われる)が、社会のシステムから離れたいと時々感じるような中に、彼らは存在する。そして、彼ら自身が不適格だと思われるような不適格な社会でさえ。

これらは複雑な感覚である。どのような感覚かというと、植民地独立後または文化交錯の中で個人が、そこに深く属したい思うだけでなく、不適格でありたいと願うことでもある。そして、2つの見かけでは正反対のものの間で時々ぐらつく。

1.Zedle Smith, On Beauty(1)

p.12
パディントン駅についてドアが開き、彼は埃っぽい駅に立った。
彼は、スカーフを丸めて、ポケットに詰め込んだ。
彼以外に旅人はいなくて、彼は周りを見渡したりせず、インテリアや鉄やガラスのはめられた複雑な天井飾りも眺めたりしなかった。
彼はタバコを丸めて吸えるような場所に真っ直ぐに向かった。
雪がないということは、まったくもって素晴らしかった。
手袋なしにタバコを持ち、空に顔を晒すことができるなんて、なんと素晴らしいことか!
ハワードは、街の景色に感動することはほとんどなかったが、今日はオークの木とオフィス街が青い空に縁どられており、どちらにも白い雪に邪魔されていないというこの風景が、たぐい希な洗練されたものとして彼の目に映った。
日が当たっている細い通路で一息ついて、ハワードは柱によりかかった。

p.13
黒いタクシーは列をなして並んでいた。人々は、人々はどこに向かうかを説明し、後部座席に気前よく荷物を積んでもらっていた。
ハワードは、5分間に2回も「ダルストン」という行き先を聞いて、面食らった。
ダラストンは、ハワードが生まれた小汚いスラム街の東の端っこで、彼をつぶそうとする汚い人々であふれてた。彼の家族もその一員に含まれていたのだ。
しかしながら、現在は、まったく普通の人々が暮らす場所のようだ。
パソコンを持った淡いブルーのコートを着て鉢植えをもったブロンドの女性や、叩かれた金のように光沢のある安物のスーツを着たアジアの男性が、彼の記憶の初期の頃に残っているイーストワンダーの地に住んでいるのは、想像もつかないことである。



p.14
私たちは、「植民地独立後」についてあらゆる文献をもとに、長い間学びました。
あなたたちは、基本的な特徴や、作者の見解が述べられた情報をもとによく考え、あなたなりの視点でそれを見て学んだことでしょう。
それらの成り行きとあなた方が学ぶための引用を正確にするために、いくつかのタームを巻き込む必要があります。
まず最初の「植民地の文献」は、しばしばはっきりとした定義をもたず、文献は帝国の力によってかつて植民地にされた国から生まれた「植民地独立後」と呼ばれている。

p.15
これらの解釈から私たちは、もちろん、国家と時間枠の大まかな範囲を覆うようにはっきりと明確にしなければならない。
植民地独立後の文献は、しばしば直接的に/または、植民地化の余波を与える:国と人々の両方の革命のための建物;植民地時代に与えられた労役の規則をふりほどく中から起こった問題;私たちは、それぞれ自分の歴史を覚えておく必要がある。排除と制限、それらは苦しいことかもしれない。そしてそれは最後の革命になり難しいけれども、真実に向かう。
このようにして、独立後の学習と理論は、個人がどのようであるかをよく調べることであり、社会と国は彼らの植民地の歴史に答えるものである。
村のルールと最後のの革命の遅いステージをカバーする最後の事実として扱われる。
植民地の学習で、アイデンティティの背景と最も関わりのあるものは何かというと、個人と人々のための声と場所である。
独立後の文献は、一般的な植民地開拓者の反応を通じて、新しい声と意味を開拓し、それは新しい言語と物語になった。

現代では、全世界で、国境はかすみ、国は互いに影響し合い、より境界を行き来し、人びとの文化の交流に役立っている。

p.16
その代わりに、これらの会議は、独立後の文献だけでなく、文化的な記述と英語の言語の中で交差されて表現された。
私たちは、テキストに影響する翻訳のプロセスを吟味し、それらの中心の主題を何かを失うーそして、想像されたー翻訳の中で。
私たちは、はっきりと見えるかもしれない文献の方法について吟味する。
珍しさは、世界的な命題を通過するにも関わらず、それぞれの文化を結びつける。
そして最後に、私たちは、それらの関連をみたいと思うだろうー私たちが存在する世界とアイデンティティをより含有するために、それぞれの世界観を理解するもととなるだろう。



プロフィール

Mikami Kako

Author:Mikami Kako

おことわり

保育士・図書館司書に関しては、旧システムによるものなので、現在のもの科目編成や内容にずれがあります。放大についても閉講科目が含まれます

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